2021.07.13 22:00
預言 21
ブランデンブルク門
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金辰明・著
21 ブランデンブルク門
「崔(チェ)さんですか?」
智敏(ジミン)は到着した飛行機から降りるや否や、そこで彼を待っていた人物に出会った。
30代前半の、どこにでもいそうなその女性は、自身について尹(ユン)という姓だけを名乗った。
安っぽいTシャツに古ぼけたグレーのコートを引っかけた彼女は、智敏を一目見るなり近づいてきて、短い挨拶をした後、すぐに車に乗り込んだ。目的地はベルリンの中心街にあるパリ広場だった。
広場は群集でぎっしりと埋められ、東西を隔てる壁に向かって、力強い喊声(かんせい)が上がっていた。
「Die mauer muss weg ! (ディマウアームスヴェック)」
「Die mauer muss weg ! (ディマウアームスヴェック)」
車を止めて降りた智敏は、その光景を見ながら尋ねた。
「何て言ってるんですか?」
「壁を取り壊せ!」
「これは観光なんですか? それとも南米でもそうだったように、教育?」
「ふふっ、両方ね。とりあえず、あの門を見て。あれが有名なブランデンブルク門よ。昔、プロイセン王国の強大さの象徴として造られた巨大な門。今は皮肉なことに、分断の象徴になっている。1961年にベルリンの壁が造られて、それまで東西ドイツを往来できていたこの通路も閉鎖されたのよ」
さすがにブランデンブルク門は雄大だった。
門を開けろ、とひっきりなしに上がる群集の喊声は、壁と門にぶち当たり、巨大な残響となって辺り一帯にこだましていた。
「南米にカウサがあるなら、ここには大学生組織のカープ(CARP)があるわ。多くのヨーロッパの学生が共産主義をたたえてソ連に追従し始めた時、私たちはここに集って声を上げることにしたの。ブランデンブルク門を開けろってね。偉大なる魂の叫び。最初は小規模だったけど、今は世界中から人々が押しかけて来るわ」
「私たちっていうのは、誰のことなんですか?」
「文(ムン)先生によって目覚めたドイツの大学生とでも言えばいいかしら。あるいは、ドイツの大学生によって意識が高まったヨーロッパの学生って言うべきかしらね」
智敏は、文総裁の存在の大きさに驚きを禁じ得なかった。
共産主義と対峙(たいじ)してきた文総裁のたゆまぬ努力は、ダンベリー刑務所にいた頃から智敏もよく知るところだったが、いつの間に、ヨーロッパにまでこのような巨大なうねりをつくり出していたのか……。不思議でならなかった。
「先生はドイツで二つの活動をなさっているのだけれど、一つがこのカープ運動で、もう一つが技術平準化運動よ。先進国の技術を開発途上国と分かち合うことで、世界のすべての国々を貧困の苦しみから解放しようとしているの」
「裕福な人間の物を奪って貧しい人間にあげようとするのも、豊かな国の技術を貧しい国に分け与えようとするのも、同じ共産主義じゃないんですか?」
「私は複雑なことは分からないわ。とにかく、ボーフム大学にいた金啓煥(キムゲファン)教授が中心となって、ドイツの多くの技術を拡散させているの」
「全世界の貧しい国にですか?」
「ふふ、ひとまずは韓国にね。70年代からドイツの機械と自動車部門の技術が韓国にたくさん入っていった。ゲルマン民族主義の排他性を乗り越えて、ドイツの会社を引き継ぐのは簡単ではなかったけれど、幸せだった。その分野で大韓民国が目に見えて発展したしね。でも、今の目に見えない共産主義との戦いにはゲンナリする。毎日ここに来て叫んでいれば、いつかは結果が出ると思っているけれど、実際、相当に根気が要るし、大変よ」
「あの門はいつ頃開くんでしょう?」
「誰にも分からないけど、あの門さえ崩れたら、ヨーロッパが、いえ、世界が共産主義から解放されるわね。苦労しかなかった私の過去が、あの門にこだまする喊声を聞く時だけは癒やされる。だからお客様が来ると、必ずここに案内するの。そして今日は、さらに特別なのよ」
「特別?」
「もう少し待っていれば分かるわ」
尹は、声をからして「Die mauer muss weg !」と叫んでいる人々の一端を指さした。
しばらくの間、見ていると、彼らは喊声を上げるのをやめ、お互いの手を握った。広場に集った人々がみな、手に手を取り始め、やがて歌声が響いてきた。
私たちの願いは統一、夢でも願うは統一 誠を尽くして統一を、統一を成し遂げよう
「あっ!」
驚くべきことに、人々が手をつなぎながら歌っている歌は「私たちの願いは統一」だった。
「どうしてあの人たちが韓国の歌を歌っているんですか?」
「ふふふ、地球上に統一の歌はあれしかないみたいね」
智敏は胸が熱くなるのを感じ、我知らず一緒に歌を口ずさんでいた。
尹も厳粛な顔つきで巨大な合唱に合わせ、辺りかまわず大きな声を出して歌っていたが、最後はそれが涙声に変わった。
これまで味わってきた苦しみをここで癒やすのだという尹の言葉を、智敏は実感した。
「どうしてドイツにまで来て、こんなことをしてるんですか?」
「頭がおかしくなっちゃったのかもね。ある時、危険なことに挑戦してみたいっていう得体の知れない情熱が湧き上がってきて、祈祷ばかりしている日常から抜け出したくなったのよ。ちょうど、共産主義国家に潜入して布教をする『バタフライ作戦』が始まって、思わず飛び込んだの」
「大変だったようですね」
尹はそれには答えず、話題を変えた。
「金啓煥博士は、あなたに天体物理学を推奨したわ」
「天体物理学?」
「博士は世界技術平準化運動の先駆者だから、ソ連をよく知っている。あなたの専攻として、天体物理学を勧めているの」
「俺に天体物理学を勉強しろって? どういうことなんですか?」
「あなたは一度大学を卒業して、留学生の身分でソ連に入るの。金博士が天体物理学を勧めたということは、それが一番安全ということよ。一旦ソ連に入れば、彼らはあらゆる角度からあなたを調査するわ。専攻を間違えて選べば、正体がばれて殺されるかもしれない。天体物理学なら追跡される可能性がまだ低いということだから、ひとまず受け入れなさい。実際、成績だって良くないといけないから、ウィーンに行って、最低4年は大学に通う必要があるわ」
「4年? ソ連に入るのに4年も待てっていうんですか? オーストリアで飛行機に乗りさえすればいいと思っていたのに」
「飛行機に乗りさえすればいいですって?」
「違うんですか?」
「命をおもちゃにするつもり? あなたはソ連に入るのがどういうことなのか、全く分かっていないようね」
「本当に4年も待たなきゃいけないんですか?」
「最短で4年よ。ソ連と忍耐は同義語なの。耐えて待ち続けてこそ、ソ連という国が目の前に現れる」
尹は一言付け加えた。
「忍耐こそが生きる道なの」
「そうは言っても、俺は4年も待てませんよ、絶対に」
尹は袖をまくり上げた。
深くえぐれた傷があらわになった。彼女は自嘲的なほほ笑みを浮かべ、冷ややかに言った。
「待てなかったからこうなったのよ。まさにそのソ連でね」
眉をひそめる智敏に向かって、尹は恨(ハン)のこもった声を吐き出した。
「ウィーンでミッションを受けて、男性メンバーとペアを組んで急ぎモスクワに行ったの。でもそこで、二人とも正体がばれそうになって、私は彼を告発し、彼は処刑されたわ」
「え?」
「私がソ連の党幹部に暴行される瞬間を、彼は耐えることができなかった。それで足が付いたのよ。たかがそんなことにも耐えられない人間なんてソ連にはいないから」
「……」
「彼が逮捕されて尋問を受ける際に、私は彼が反逆的な発言をしたことを証言して、彼を告発したわ。もともとそういう約束だったのよ。どのみち、党幹部を殴ったからには悪質な思想犯の烙印(らくいん)を押されて、生き延びる方法なんてなかったしね。おかげで私は疑いを晴らして、安全を確保することができた。でも、その後は生きている気なんてしなかったわ」
智敏は言葉を失ってしまった。
せいぜい数カ所の関門をこっそり突破すればいいとばかり思っていたのに、最低でも4年待たなくてはならないとは。
「バタフライ作戦のメンバーのうち、ソ連で生き残ったのは私一人だけよ。東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア……。ほかの国に潜入したメンバーはそれなりに帰ってきたわ。でも、ソ連から帰ってきたのは私だけ」
「……」
「理解できたかしら。ソ連とはそういう国なの」
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次回(7月20日)は、「ミッション・バタフライ」をお届けします。