2021.07.06 22:00
預言 20
矛盾
アプリで読む光言社書籍シリーズ、「小説『預言』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。
金辰明・著
20 矛盾
数日後、智敏(ジミン)はアルゼンチン行きのユナイテッド航空便に乗っていた。同行したピーター・パクは、相変わらず感情を表に出さないまま、ぶっきらぼうに言った。
「南米を経由して、ヨーロッパに入る」
「ヨーロッパに直行したらだめなんですか?」
「いや、まずアルゼンチンを皮切りに、南米の数カ国を回って、安全を確かめてから行くほうがいい。我々──崔(チェ)君が追跡されている可能性もある。長旅で彼らをまいてから、ドイツに入る」
「ソ連の奴(やつ)らが監視してると? 俺のことをどうやって知ったんですか?」
ピーター・パクは薄笑いを浮かべた。
「ソ連の奴らではない。スパイの嫌疑で捜査を受けたからには、アメリカの情報機関の注意を逸(そ)らす必要がある。もし彼らがヨーロッパにいる仲間に一言でも言えば、ソ連に入ることさえ難しくなるし、入ったとしても下手をすると、アメリカの情報機関の手先になれと強要されるかもしれない」
「南米をぐるぐる回っていたら、むしろ疑われるんじゃないんですか?」
「ただ回るわけではない。これはミッション・ツアーだ。情報機関の注意を逸らすのは簡単だ」
「ミッション・ツアー? 南米でもやっていることがあるんですか?」
「カウサ(CAUSA)運動が我々のミッションだ」
「カウサ?」
「神主義の観点から、マルキシズムを批判している。共産主義に対抗する中南米各国政府の唯一の武器だ。以前は共産主義のもっともらしいイデオロギーに、手も足も出なかった」
智敏はその辺りで関心を持つのをやめ、目を閉じてしまった。
とにかく自分は、ソ連に入ってオシポーヴィチを撃てばいいのだ。そこに余計なものをごてごてと塗りたくったところで、本質は何も変わらない。武器は、理念ではなく銃だ。
撃つべき相手は南米ではなく、ソ連にいる。
しかし、実際に経由地であるブエノスアイレスの空港に到着した智敏は、驚きを隠せなかった。空港で彼らを待っていたのは、アルゼンチンの外務大臣だった。
ピーター・パクを歓迎して握手を交わした大臣は、すぐさま一行を大統領官邸に案内した。
「パク先生!」
大統領はピーター・パクを親しげに、それでいて丁重に迎えてくれた。
ピーター・パクは大統領の執務室に集った政府の指導者らを相手に、勝共、すなわち「共産主義に勝つ」という活動に関する短い演説を行った。
演説が終わると、人々はみなピーター・パクと熱烈な抱擁を交わし、数々のカウサの成功事例を語り合いながら、ディナーを共にした。
こうして1日のスケジュールが終わり、ホテルへ向かう途中、ピーター・パクが智敏に向かって口を開いた。
「崔君が何を考えているのか、私には分かる」
「……?」
「宗教を持たない人間は、宗教を持つ者の生き方と世界観を無視するものだ。実体のない虚像を何よりも重要視するなど嘆かわしいといって、簡単に非難する」
またしてもこの手の話か、と思いつつも智敏は否定しなかった。
実際に、文(ムン)総裁と韓(ハン)女史に出会って彼らの品性と努力に惹(ひ)きつけられ、感嘆したのは事実である。しかし、たかだかそんな理由で宗教に対して友好的な視線を送るには、彼の生きてきた過去はあまりにも過酷なものだった。
「理念に対してもそうだ。左派と右派の違いなどという理由で命を投げ出して戦争を始める。そういったことが、憎らしくて仕方がないのだろう。しかし逆に、信仰や信念を持つ人々が崔君の生き方を見れば、そこに塵芥(ちりあくた)ほどの意味でもあるのかと、気の毒がるに違いない。本当のことを言えば、私だって崔君のことを気に入っているわけではない。しかし……」
「しかし?」
「一切の判断と思考を保留して、崔君を助けることだけを考えろ、と文先生はおっしゃった。それこそがほかのどんな信念に従うことよりも重要だと」
ピーター・パクは再び口をつぐんだ。
智敏も彼を黙って見つめてから、視線を窓の外に移した。そんな大げさな言葉で迫らなくても、自分は必ずソ連に入ってオシポーヴィチを撃つ。
FBI、スパイ、文総裁。韓国を発(た)った後、智敏の身に降りかかってきた巨大な力と彼らの言葉も、結局はどうでもいいことだった。
初めから今に至るまで、智敏の目的は何も変わっていない。そして今、その復讐(ふくしゅう)の道が徐々に開かれつつある。
“智絢(ジヒョン)、もうすぐ俺がお前の復讐を果たしてやるからな”
南米の風景に目をやったまま、智敏は復讐以外の思いを一つひとつ消し去っていった。
翌日、彼らはすぐに空港へ向かった。
その後に立ち寄った南米のほかの国々でも、アルゼンチンと同じように歓迎ともてなしを受け、ピーター・パクは行く先々で情熱的な演説をして拍手喝采を浴びた。
アルゼンチンの大統領官邸でも、ニカラグアの捕虜収容所でも、世界平和に対するピーター・パクの率直な叫びは、大統領から捕虜に至るまで、聴衆をこぞって惹きつけた。もともと大部分がカトリック国家であるがゆえに可能なことだった。
しかし、どこに行ってもやむことのなかった彼らに対する拍手が、エルサルバドルのある広場で初めて止まった。
彼らよりも先に来ていた数人の男が広場の反対側に陣取り、多くの観衆から上がる歓声の中、メガホンを手に演説をしていた。男たちが一言話すたびに、割れるような拍手と歓声が響き渡った。
一行の案内と通訳を任されていた現地の案内人が、うつむき気味にささやいた。
「共産主義の理論家たちです。観衆が興奮していますから、ここはこのまま通りすぎましょう」
「ちょっと待て」
ピーター・パクは共産主義者たちをにらみつけながらつぶやくと、怒りを帯びた声で智敏を呼んだ。
「崔君。先生は全力で君を助けろとおっしゃったが、さっき言ったとおり、私の考えは違う」
「……?」
「我々の財団で君をソ連に送る必要があるのか、判断しかねるという意味だ。考えてもみたまえ。君がソ連に行って、やろうとしているのは、極めて私的なことだ。しかも君がそれをやってしまえば、それを後押しした私と先生は、ソ連だけでなくアメリカにおいても非常に危険な人物と見なされてしまう」
「それで?」
「我々はあらゆる危険を顧みず共産主義と戦っている。それが神のみ旨(むね)だからだ。しかし、無神論者である君は共産主義に勝つことはできない。共産主義こそ、この世で最高の理論だからだ」
智敏は何を言いやがる、とでもいうように反発した。
「俺が撃とうとしているのは妹の仇(かたき)のオシポーヴィチであって、そいつがソ連のパイロットというだけだ。共産主義なんて関係ない」
「ならば私は君を助けることはできない。なぜ共産主義と戦うのか、共産主義の矛盾が何なのかも知らずに、復讐だけを目的とする君を助けることなど、私にはできない」
今さら何を言い出すのかと、智敏は顔をしかめた。
「先生に土下座をして謝ることになろうとも、ただの殺人でしかない君の復讐劇に手を貸すことはできない。我々のしていることは社会的な運動なのだ」
しばらくの間、ピーター・パクのこわばった顔をにらみつけていた智敏は、広場にいる共産主義の理論家たちに再びちらりと目をやり、彼らのほうへ一歩一歩近づいて行った。
現地の案内人がこれはまずいとばかりに止めに入ったが、智敏は既に、彼の腕を引きずるようにしながら、演説の鳴り響く広場の真ん中に進み出ていた。
演説は絶頂を迎えていた。
「皆さんは1日に何頭の豚をほふり、1日に何個のりんごを収穫しますか? 1人の人間が作り出す物は、10人の人間を養うのに十分な量なのです。それほどに豊かなのが今の世界です。それなのになぜ! なぜ皆さんは1日中働いても腹を空(す)かせているのですか? それはみな、あの貪欲な資本主義のブタどものせいではありませんか! 皆さんの分け前をことごとく独占する、あのぶくぶくに太ったブタどものせいではありませんか!」
メガホンを手に熱弁を振るう共産主義の理論家が一言しゃべるたびに、疲れ、腹を空かせた観衆はさらに大きな歓声を上げ、万歳を叫んだ。
智敏が近づいて行くと、扇動家は情熱的な外国人支持者が激情を抑えられずに飛び出してきたものと思い、彼の手をしっかりと握って高く上げ、共に万歳を叫んだ。
「ワー!」
観衆のどよめきが上がると、扇動家は智敏にメガホンを手渡した。
「さあ! 同志も何か言いたまえ!」
メガホンを通訳に渡した智敏は、前置きなしに叫んだ。
「お前らが1週間徹夜すれば、飢えて死んでいく人間を10人救うことができる」
歓声が続いた。
「だが、お前らがそいつらを生かすために、1週間徹夜できると思うか?」
既に内容など聞いていない群衆から、再び歓声が響いた。
メガホンを渡してきた扇動家だけが、何かおかしいというように目を見開いて、智敏を見つめた。
「10人、いや100人死ぬとしても、徹夜なんかしない。だが、1週間徹夜すれば自分の息子にナイキのシューズを買ってやれる。それなら徹夜するよな。分かるか? 人間てのは利己的な生き物なんだ。自分の息子の靴1足が、他人10人の命よりもよっぽど重要なんだ。共産主義なんてのは、それを否定してつくられたものだ。本能と合わない絵空事だから、理論は素晴らしくても、それが実現することは絶対にない。不可能なことを実現しようとするんだから、最初から最後まで独裁と抑圧だ。分かったら、戯言(たわごと)に耳を貸していないで、さっさと家に帰るんだな!」
多少弱まったものの、またしても歓声が上がった。
演説の内容に耳を傾けている者は既に半分以下になっていた。しかし、智敏の言葉を理解した者は目を丸くして、共産主義者たちを見つめた。
智敏からメガホンを受け取った扇動家らは、ぽかんとしたまま、智敏が毅然(きぜん)とした足取りで遠ざかっていくのを眺めるだけだった。
しばらくして我に返った扇動家が、叫び声を上げた。
「あの資本主義のブタを捕まえろ!」
しかし、智敏は既にピーター・パクと共に広場を抜け、走り去った後だった。
普段走り慣れていないピーター・パクが息を弾ませながらも、快活に笑った。
「ハハハハハ! あの共産主義を振りかざす奴らの慌てぶりったらなかったな。今まで生きてきて、共産主義をあんなふうに一発でノックダウンさせた人間は初めて見た。さっき言った、無神論者は共産主義に勝てないという言葉は取り消そう」
「宗教だって理念だって、生き様には勝てないんですよ」
智敏の答えにピーター・パクはシニカルな表情を浮かべたが、空港に到着するなり、気持ちの良い笑顔で手を差し出した。
「君のことを祈っているよ」
ピーター・パクの手を固く握りしめてから別れた智敏はブラジルに向かい、リオデジャネイロの空港からベルリンに向かう飛行機に乗った。
いよいよソ連に入るのだ。智敏は覚悟を新たにしながら、過ぎ去った日々を思い返した。
金浦(キムポ)空港であったこと、領事僑民(きょうみん)局長を暴行してアメリカに渡ったこと、ケンシントン夫妻、そして……ソフィア。
ひょっとして、ソ連でソフィアに会えるのではないか。
何度も脳裏から消し去ったソフィア。しかし、いざソ連に入ると思うと、ソフィアがゆっくりと自分の中で甦(よみがえ)ってくるのを、どうすることもできなかった。
---
次回(7月13日)は、「ブランデンブルク門」をお届けします。