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預言 19
祖国と呼ぶ理由

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「小説『預言』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。

金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

19 祖国と呼ぶ理由

 ワシントン地方裁判所に事件書類の閲覧を要求した智敏(ジミン)は、弁護士の話が事実であったことを確認した。

 FBIは彼をスパイの嫌疑で調査するためにごたいそうな計画を立てていたが、連邦検事によって捜査が終結されていた。

 「ソ連へ渡る橋とばかり思っていたのに、毒が塗られていたんだ。あのソフィアって女が魔女だったとはな」

 「その反対ですよ。ソフィアは自分の父親を葬り去るようなことまでして、俺を助けたんです」

 「スパイの世界のことなど分かるものか。きらびやかな偽装とペテンの内幕を知り得る術(すべ)などない。奴(やつ)らを判断する観点はただ一つ。自分に被害が及んだか及ばなかったか、それだけを考えればいい」

 「俺はソフィアから被害なんて受けてませんよ」

 「ジミー、お前は純粋だが愚かだ。ソフィアがいなければ、お前は刑務所に行かなかった。これはすごくシンプルなことだ。ソフィアと出会った。その結果、刑務所に入った。それ以外のことは目に入ろうが耳に入ろうが、すべて忘れろ」

 「それでも俺はソフィアを信じます」

 「嫌疑なしになったとはいえ、一度はスパイに疑われたんだ。もうお前がソ連に行くことなどできない。ジニーの復讐(ふくしゅう)をする方法はないということだ。すべて、あの魔女のせいでな」

 釈放されて帰ってきたものの、喜びも束の間、その後の日々はそう気楽なものではなかった。

 ケンシントンは前にも増して酒を飲むようになった。そして、酔えば必ず智絢(ジヒョン)を恋しがり、ソフィアを罵った。智敏もまた、これからのことについては何も分からないまま、文(ムン)総裁の連絡を待つだけだった。

 しかし、すぐに来るだろうといわれていた連絡は、一向に来なかった。

 そうしてケンシントンと気まずい対面を繰り返す毎日を送っていたある日、智敏は意外な人物から招待を受けた。

 「お会いできてうれしいわ。韓鶴子(ハンハクチャ)です」

 電話をかけてきて智敏を夕食に招待したのは、文総裁の夫人だった。

 文総裁が普段暮らしているというイースト・ガーデンの広々とした敷地に建つ大きな邸宅を前にして、智敏は自分が場違いな所に来たと感じた。

 しかしその懸念は、玄関で彼を迎えた女主人の丁重な歓待によって雲散霧消した。彼女の姿は穏やかでいて素朴であり、以前、ダンベリー刑務所の面会室で見かけた時と少しも変わらなかった。

 「崔智敏(チェジミン)です。またお会いできてとてもうれしいです」

 「どうぞお入りください。主人から手厚くもてなすように言われてますから」

 智敏は文総裁に初めて会った時のことを思い出した。

 この夫妻には共通する部分があった。

 アメリカ社会に影響を及ぼす巨大な力を持っていながらも、彼らは謙遜であることを忘れなかった。文総裁は最も底辺にいる囚人らにも、常に自分から頭を下げて挨拶し、丁重に接した。

 今、目の前にいるこの夫人もまた、身分の高い人に侍るかのように智敏を喜んで迎え入れ、もてなしてくれている。彼はかえって気後れし、少し硬い表情で言った。

 「なぜこんなにも良くしてくれるのか、訳が分かりません。俺は中学校すら満足に出ていない人間です」

 「主人は崔さんを祖国と呼びながら、お会いできたことを喜んでいました」

 「祖国だなんて! とんでもありません。俺はただ……」

 智敏はこれ以上、自分が出来損ないであることを主張するのも馬鹿らしくなり、口をつぐんでしまった。

 しかし、文総裁の言動は実に理解不能だった。祖国とは。

 自分のどこを取ってみても、およそ似つかわしくない言葉だった。

 自らを客観的に判断しても、学んで身につけたものはもちろん、生まれつきの心根だとか性質といったものですら、褒められたものではなかった。

 「ピーター・パクだ」

 応接室にはもう一人、智敏を待つ人物がいた。彼は智敏に向かって唐突に手を差し出した。自らを「ワシントン・タイムズ」の社長と名乗ったその男は、智敏を上から下までじろじろ見つめた後、何も言わずに座った。

 社会的地位の高い人物と対面する機会に恵まれなかった智敏もまた、気まずい雰囲気の中で、ただ座っているしかなかった。しばらくすると韓女史が応接室に現れ、彼らを食堂に案内した。

 「これもどうぞ召し上がって」

 韓女史は智敏のために、様々な料理を取り分けるなど、細やかな心配りをしてくれた。

 和やかな雰囲気で食事が進む中、智敏は尋ねてみたいことが山ほどあったが、むやみに話し出すことはできなかった。

 彼らの対話方法は一体どんなものなのか、どんなことが彼らの気に障るのか分からず、ただひたすら、出されたものを黙々と咀嚼(そしゃく)するだけだった。

 食事が終わる頃まで口を固くつぐんでいた智敏だったが、一言もしゃべらないのも失礼に当たると思い、何か言おうとして口を開いた。

 「奥様は文先生とケンカしたりするんですか? 夫婦喧嘩(げんか)というやつです」

 ピーター・パクが智敏に鋭い視線を送ったが、実際のところ、智敏にとって一番気になることだったため、彼は韓女史の口元から目を離さなかった。韓女史はふふ、と笑った。

 「ケンカしない夫婦がいると思いますか?」

 「けど、あんなに遠い所に一日も欠かさず面会に行くのですから、一生のうち、ただの一度もケンカしたことがないのかもしれないと思ったんです」

 「私たちだってほかの人たちと同じですよ。神様だってご夫人がいらしたら、しょっちゅうケンカをなさると思いますよ」

 韓女史は率直で、一緒にいると安らいだ気分にさせてくれる人だった。

 食事が終わり、お茶も飲み終えると、韓女史は場所を移した。静かな部屋のソファに座った彼女の口から飛び出したのは、思いも寄らぬ話だった。

 「主人が刑務所に入ることになったのには、別の理由もあるのです」

 智敏は身を乗り出して話に耳を傾けた。

 力のない自分は、FBIのなすがままにされるしかなかったが、計り知れないほどの力を持った文総裁が、一体、何の陰謀に巻き込まれたというのだろうか。

 韓女史はしばし間を置いてから口を開いた。

 「大韓航空007便のことがあったからといわれています」

 「えっ!」

 智敏の口から短い叫びが漏れた。

 「ソ連が大韓航空007便を撃墜した後、主人はすぐにレーガン大統領に緊急会談を要請しました。レーガンとの関係は非常に良好だったので、すぐに日程が決まると予想していたのですが、レーガンからの回答はありませんでした」

 「文先生はレーガンに何の話をしようとしていたんでしょうか?」

 「レーガンと共にモスクワに行って、書記長に直(じか)談判しようとしたのです」

 韓女史の言葉に智敏は仰天した。

 初めから文総裁は、自分と似た道を歩んでいたのだ。自分はソ連に入って、戦闘機のパイロットであるオシポーヴィチを殺そうとしたが、文総裁はモスクワで書記長をひざまずかせようとしていたのだ。

 ターゲットは違っても方法は同じだ。だからこそ文総裁は、あれほど自分を高く買い、気遣ってくれたのだろう。

 自分のほかにも、ソ連に行って談判しようとした韓国人がいた。それがまさに文総裁だった。

 智敏は自分と文総裁が同じ種類の人間であることを感じ、慕わしさがどっと込み上げてきた。その彼が、刑務所で皿洗いをしているとは……。

 「レーガンは誰よりもソ連を憎む、強烈な反共主義者といわれていましたが」

 「彼は大韓航空007便の事件以降、ソ連との正面対決を避けるようになったのです。実際、ソ連は目に見えないところで、少しずつ崩壊し始めていました。あの時、レーガンが主人の言葉を聞き入れ、すぐにモスクワに行くといって立ち上がっていれば、ソ連はもちろん、全世界の共産主義は終局に向かい始めたはずなのです」

 「先生はレーガンに裏切られたと感じたでしょうね」

 「もちろんです。でも主人は腹を立てませんでした。冷静に、初心に帰って、さらに懸命に歩まなければならないと言っていました」

 「歩むとはどういうことですか?」

 「いつもしていることをする、ということです。私たちは今まで『ワシントン・タイムズ』を通して多くの声明を出してきました。私たちの新聞が先頭に立って、アフガニスタン紛争におけるソ連侵略軍の抑圧のもとで苦しむアフガンの人々を支援し、国際平和を守らなければならないと主張しました。それがやがて、ソ連の経済を破綻させることにもつながると」

 「……」

 「経済危機にあえぐソ連に向けて、SDI(戦略防衛構想)に関する記事も頻繁に出しました」

 「SDIって何ですか?」

 「ミサイル迎撃システムをつくる計画のことです。スターウォーズ計画ともいいます。経済危機に陥った状態でこの競争を続けても、いつか自滅してしまうことは目に見えています。結局これによって、ソ連内部でも対決路線を放棄し、平和共存の方向に進もうという声が主流になりました」

 「共産主義に反対していることは知っていましたが、実際にそんなことをしているとは知りませんでした」

 「私たちの新聞は百回以上、アフガニスタンの支援とスターウォーズ計画に関して、集中的に報道しました。そのための投資も随分したわ。全米でも有数の優れたコラムニストばかりに記事を依頼して、ほかの新聞社の三倍以上の原稿料を支払いました。ソ連を追い詰めることになる情報のためなら、努力も資金も惜しまなかったのです」

 「そうだったんですか」

 「大韓航空007便撃墜事件はソ連軍部の独断行為だったため、共産党の政治局内部でも異なる意見や批判がかなりあったのです。あの頃、モスクワに行くとの予告だけでもしていたら、『正義』対『不義』の構図がつくられて、ソ連の結束が弱まっていたはずなのに……」

 韓女史はあきらめ切れない様子で短いため息をついた。

 智敏もまた、もどかしい気持ちで唇を噛(か)んだ。

 数多くの自国民を空中で爆死させておいて、何もしない韓国政府に対する歯がゆさ。怒り狂った顔でソ連の非人道的な態度を糾弾しておきながら、自らの打算的な計画がうまくいった途端に、何事もなかったかのように態度を豹変(ひょうへん)させたアメリカ。

 だから智敏は決心した。自分は何があってもソ連に行かなければならない。世界中の誰もしようとしなかった復讐を、自分がしなければならない、と。

 「信じていたレーガンと、最後の砦(とりで)だったアメリカが、逆に私たちを締めつけてきました。レーガンは会談を避けたその時点を境に、私たちを弾圧するようになりました。レーガンのもとにいた参謀たちがこれ以上ないほどのあくどい検事を連れて来て、どんなに些細(ささい)なことでも見逃すまいと血眼になったのです。主人が身動きできないようにするためでした。その結果が、あなたも知っているとおり、三年間で7,500ドルの脱税容疑です。どこでどのように漏れたのか分からない、その脱税を口実に、主人はダンベリーに収監されたのです。しかし、主人はそこで崔さんと出会うことになったのです」

 文総裁と自分が出会ったというくだりで、韓女史がひときわ声に力を込めたのを、智敏は聞き逃さなかった。

 「でも、俺と会ったことなど、そんなに重要では……」

 「いいえ。主人は、韓国の魂を見たと言っていました。死んだように静まり返っていた祖国が、ようやく自分と共に歩んでくれる人間を送ってくれたと」

 「俺はただ、妹の復讐を考えているだけです」

 「オシポーヴィチを殺すことですか?」

 智敏は黙ったままうなずいた。
 「一度よく考えてみてください。本当の復讐は、果たしてオシポーヴィチを殺すことなのかどうか」

 「そのほかに何があるというんですか?」

 「本当の復讐は、心をからっぽにすることだと思いますよ」

 智敏は首を横に振った。

 全く理解できなかった。

 夫人の持つまっすぐな心性と人間的器(うつわ)の大きさは十分に感じたものの、道徳、平和、愛、正義、そういったものを論じる言葉はいつも空虚でしかないと、彼は今までの人生を通して痛感していた。

 そういうことが心に響いてきたことはなかったし、それ以上考えたくもなかった。それは、ほかの人間のすべきことだった。

 「俺は相手を理解するとか、赦(ゆる)すとかいうことは分かりません。そのように生きてもきませんでした」

 智敏は燃えさかる目で韓女史を見つめ、最後の一言をはっきりと言った。

 「とにかく、俺をソ連に行かせてください」

 韓女史は何かを言おうとしたが、そのまま口を閉ざした。そして小さくうなずいた。

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 次回(7月6日)は、「矛盾」をお届けします。


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