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預言 18
釈放

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金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

18 釈放

 「ジミー・チョイ!」

 智敏(ジミン)を呼ぶ看守の声が、普段とは違って明るく響き渡った。

 「あいつ、なんでこんなに声がでかいんだ? 誕生日でも迎えたのか?」

 智敏はぶつぶつ言いながら鉄格子の前に立った。

 「釈放だ!」

 「え?」

 「今日付けで釈放だと言ってるんだ。早く私物を持って出てこい!」

 「本当ですか? 本当に俺なんですか? 369番?」

 「そうだ、369のジミー・チョイ。早く来るんだ」

 智敏は戸惑いながらもすぐに看守の後を追った。

 持ち帰る私物などなかったが、あったとしても、既に心はここになかった。あっという間に私服に着替え、慌ただしく手続きを終えた。

 正門から出る時になってやっと、智敏は次に自分を待ち構えているであろうことに思い至った。

 追放。

 拘禁期間終了後、司法省が義務的に追放審査をすべし、という裁判官の言葉が思い起こされた。

 釈放という喜びの次に来たのは、追放という絶望だった。

 「ちょっと、ちょっと待ってください」

 審査の結果は当然、追放に決まっているだろう。韓国へ追放されたら、もはやソ連はおろか、アメリカにさえ二度と足を踏み入れることはできない。

 息苦しい韓国では、パスポートの発給すら拒絶され、いつも監視される。復讐(ふくしゅう)は手の届かない遠くに行ってしまうに違いない。

 智敏は体の向きを変え、建物の中に戻ろうとした。自分を助けてくれそうなのは、ただ一人、あの中にいる文(ムン)総裁しかいなかった。

 「何だ? お前はもうここには入れないぞ」

 看守が両腕を広げて、行く手を阻んだ。

 「挨拶し忘れた人がいるんです。少しだけ入らせてください」

 「また罪を犯したら来るんだな。そうしたら入れてやる」

 「一言でいいんです、お願いしますよ」

 「だめだ」

 看守は頑(かたく)なに拒んだ。智敏も、それが無茶を言って通る話でないことは分かっていた。

 彼はあきらめ、看守に向かって丁寧に頼んだ。

 「文先生に伝言をお願いします。俺は必ずソ連に行かなきゃならない。何とかして俺を送ってくださいと」
 「何だと? ソ連? ハハハ、ソ連か。ああ、分かった」

 智敏は少しためらった後、もう一言付け加えた。

 「感謝しています、とも伝えてください」

 看守はおざなりにうなずき、智敏の背中を押すようにして刑務所の外へ追い立てた。

 鉄の扉が背後でガチャンと閉まる音を聞きながら、智敏はとぼとぼと歩き出した。

 どこに行ったらいいのか、見当もつかない。

 追放はどのように進められるのか。

 ケンシントンのもとへ帰ったら、そこで警察が待っているのか。あるいは、判決を受けたのだから、自分から捜査機関に出頭しなければならないのか。何も分からなかった。

 ふとポケットをまさぐると、出所手続きの際に受け取った領置金がいくらか残っていた。

 飛行機代には到底足りない金額だった。国外追放される場合の飛行機代はアメリカ政府が負担するのだろうか……。

 彼はあれこれ考えながら歩いていたが、いくらも行かないうちに、前方で自分を待っている黒い車を発見し、「くそっ!」と毒づいた。

 心配する必要など全くなかったのだ。彼らは既に智敏を待っていた。

 たった一日の猶予もなく追放されるのかと思うと、嫌でも自分の矮小(わいしょう)さを思い知らされた。智敏はうなだれたまま地面に唾を吐き、車に向かった。

 車のドアが開き、中にいた数人が彼のほうに向かって来たが、智敏は顔を上げなかった。

 卑怯(ひきょう)なアメリカ政府に対する抗議といえば抗議だったし、抵抗といえば抵抗だった。

 智敏は自分自身も、韓国という国も、あまりにも小さく、弱いと感じた。顔を上げることもできず卑屈に生き、命令されればそのとおりに従うしかない人間であり、国なのだ。

 「ジミー!」

 次の瞬間、耳慣れた声が聞こえ、智敏はさっと顔を上げた。

 サングラスにスーツ姿の男たちの後ろから響いてきた声だった。愛情が込められた声。

 移民局職員の無味乾燥なそれとは全く違う、柔らかくて温かい、慣れ親しんだ声だった。

 「ケンシントン夫人!」

 智敏は目を見開いた。

 喜びにあふれた声の主(ぬし)は、ケンシントン夫人だった。さらに、低音の男性の声が続いた。

 「ジミー、私が悪かった」

 「ミスター・ケンシントン!」

 ケンシントンが朗らかな顔で両腕を広げ、近づいてきた。彼は智敏に一枚の書類を見せ、ぼそぼそと言った。

 「読んでみなさい。私は大きな誤解をしていたようだ」

 智敏の目がすばやく書類の文字を追った。

 24件にのぼる暴行の前科を持つチェ・ジミンがビザ申請をするに当たり、それを援助した韓国外務部の真意はどこにあるのか、彼は危険な人物であるのか否か、韓国政府の公式見解を送っていただきたい。
 
 智敏は苦笑いを浮かべた。

 これでは韓国政府に対し、「チェ・ジミンは危険である」という公文書を送れ、と命じる脅迫以外の何ものでもない。

 強大なアメリカ政府の威嚇を前に、韓国の領事僑(きょうみん)民局長と検事はさぞや慌てふためいたことだろう。ケンシントンが納得したようにうなずきながら言った。

 「こうやって高圧的な公文書を送ったり、お前をダンベリー刑務所に閉じ込めたりしたのはすべて、スパイの嫌疑がかけられていたからだ」

 「え? スパイ嫌疑ですって?」

 「こちらの弁護士が説明してくれる」

 一歩下がった所にいたサングラスの白人が近づいてきて、智敏に手を差し出した。移民局の職員だとばかり思っていたその男性は、智敏の手を固く握りながら言った。

 「先生のおっしゃるとおりにジミンさんの身辺調査をしたところ、物々しいスパイ嫌疑がかけられていたのです」

 「先生? あっ!」

 弁護士は文総裁のことを言っているのだ。

 この異常なほどに順調な展開の裏には、やはり彼の介入があった。智敏は心の底から文総裁に感謝し、弁護士と握手を交わした。

 「FBIが捜査官暴行という罠(わな)を仕掛けたのは、スパイ罪のせいでした。あらぬ疑いを着せられて、懲役15年に処せられるところだったのですが、モスクワから来た一通の手紙があなたを救ったのですよ」

 「スパイ罪だなんて! ……モスクワから来た手紙というのは何ですか?」

 頭の中は混沌(こんとん)としていたが、智敏はモスクワという言葉がひどく気になり、鋭い視線で問いかけた。弁護士は混乱するのも当然だとばかりに何度もうなずきながら、ゆっくり説明してくれた。

 「FBIはある理由から、あなたがスパイであると確信したのです。徹底的な調査のために、彼らはまずあなたを危険人物であると証言する韓国政府の意見書を受け取り、公務執行妨害という罠まで張った後、捜査を開始しました。しかし調べたところ、既にモスクワから連邦検事宛てに手紙が届いていたのです」

 「何の話なのか、全く分かりませんが……」

 「ソフィア・アレクセーエヴナ。参事官の娘ソフィア、彼女からの手紙でした。それがあなたの嫌疑を完全に晴らしてくれました。その手紙はまさに、彼女の良心宣言だったのです」

 弁護士はカバンから1通の手紙を取り出すと、智敏に手渡した。

 「あっ!」

 ソフィアの署名が入った手紙は、モスクワからワシントンの連邦検事に宛てて送られたものだった。

 私は在米ソ連大使館の参事官として勤務していたイゴール・アレクセイの娘です。去る4月初旬、父が私の恋人を大使館に招待してはどうかと提案し、私は喜んでジミー・チョイを招待しました。

 家族がみな、楽しい時間を過ごしました。いかなる種類の不法行為、犯罪はもちろん、些細(ささい)な規則違反さえもない、健全な集まりでした。

 しかし、モスクワに帰ってきてから、私の恋人を招待した父の提案が、実はあの日、父と接触したスパイを隠し、アメリカの捜査機関の目をジミー・チョイに向けさせるための計略だったという事実を知りました。

 最終的に父の計略は成功し、そのスパイはソ連への脱出に成功しました。スパイの所属と氏名、主な諜報(ちょうほう)行為は同封した手帳にすべて記載してあります。私の父の詳細な犯罪行為もまた、併せてお送りします。

 万が一、ジミー・チョイが米捜査当局の捜査対象となっていた場合、それは全面的に父の計略によるものであることを、ここに明らかにいたします。
 
 手紙の内容と共に下段に記されたソフィア・アレクセーエヴナという署名を目にし、智敏は突き上げる恋しさに耐え切れず、奥歯を噛(か)み、拳を握りしめた。

 目尻が濡(ぬ)れ、涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえようとしたが、既に目は真っ赤になっていた。

 詳細な内幕は知りようもないが、連邦検事宛てに送られたこの手紙において、ソフィアは彼の嫌疑を晴らすために、自分の父親を告発したのだった。

 “ソフィア!”

 智敏は詰まった喉の奥から、何とか声を絞り出した。

 「その後、捜査はどうなったんですか? FBIがソフィアに召喚状を送ったんですか? でなければ、ソフィアの父親を召喚したんですか? モスクワに帰ってしまったから、何もできなかったんですか?」

 「そこまでは分かりません。外交問題の関係で、高位職のスパイ事件は絶対に公開されませんからね。しかし、一つだけ確かなのは、ジミー、あなたがこの手紙によって、懲役15年以上という重犯罪者の汚名をすすげた、ということです」

 「そういうことじゃなくて、ソフィアの家族に何事もなかったのかを聞いてるんです。いや、ソフィアに」

 智敏は胸がいっぱいになり、それ以上は何も言えなかった。

 自分のために、父親に致命的な痛手を負わせることになる良心の告白をしたソフィア。そんな彼女を憎んだ自分に対し、言葉にできないほどの嫌悪を感じた。

 “ソフィア、俺が悪かった。君は俺と出会うべきではなかったんだ。クズのような俺を赦(ゆる)してくれ。そして忘れてくれ。俺は優しい君を利用しようとしたんだ。君が守らなきゃならないのは、俺じゃなくて君のお父さんだったんだよ。君のために、そうすべきだった”

 智敏の目から涙がこぼれた。

 彼は手紙の署名をしばらく見つめてから、ソフィアの記憶をかき消そうとするかのように、手紙を弁護士に差し戻した。二人の関係を察した弁護士は、取っておけというジェスチャーをしたが、智敏は首を横に振った。

 今や会う方法もないし、これ以上自分のためにソフィアが苦しむことは我慢できなかった。手紙をアメリカの検事に送るまで、ソフィアはどれほど悩み、苦しんだことだろう。

 「ともかく、外交官である自分の父親に、以後いかなる外部活動もできなくさせてしまうこの告発状は、あなたの無実を100パーセント立証するものです。この手紙を受け取った連邦検事は、FBIの捜査を中断させましたが、しばらくの間、観察が必要だったあなたは、1年以内の予防拘禁という判決を受けたのです」

 智敏はようやく事件の経緯(いきさつ)を知ることができた。文総裁の指示を受けたこの弁護士が手紙を突き止め、予防拘禁期間を終わらせてくれたのだ。

 「予防拘禁が終わったら追放審査を受けなければならないという判決でしたが……」

 「裁判にかけられた公務執行妨害の嫌疑自体が、スパイ事件を捜査するためのFBIの罠だったのですから、そこは司法省と話をつけてあります。既に審査を行い、追放対象ではない、という結論が出ました」

 智敏は胸をなで下ろした。ソ連に行かなければならない彼にとって、拘禁よりも絶望的なのが、国外追放だった。

 「ひとまず休みましょう。先生は釈放の件以外にもいくつか指示を出されています。すぐに連絡が行きますよ」

 智敏は文総裁を思い浮かべた。彼にソ連へ行かせてほしいと哀願し、その後、この一連の動きがあった。

 こうして釈放はされたものの、本当に自分をソ連に行かせてくれるのだろうか。ソ連に行って、復讐(ふくしゅう)することができるのだろうか。復讐の前に、少しでもソフィアの顔が見られるという偶然は起きないものか。

 ソフィアを忘れようと思って手紙の受け取りすら拒否したが、いざ、ソ連に行けるかもしれないと思うと、真っ先に浮かんでくるのはソフィアだった。様々な思いが交錯する中で、なぜか文総裁の一言が脳裏をよぎった。

 “崔(チェ)さんがここで私と出会うことは、韓国人の切なる願いだったのかもしれません”

 あれは一体、どういう意味だったのだろう。

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 次回(6月29日)は、「祖国と呼ぶ理由」をお届けします。


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