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預言 17
告解

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金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

17 告解

 自分が目を開けているのか閉じているのかも分からない。

 智敏(ジミン)は虚空に手を伸ばした。ベッドは汗でぐっしょり濡(ぬ)れている。彼は口を開け、声にならない叫びを上げた。

 “お兄ちゃん!”

 智絢(ジヒョン)がいた。飛行機の中で、額の辺りから血を流しながら、必死に自分を呼んでいる。彼は死に物狂いで駆け寄ろうとした。

 しかし、まるで足が地に張りついたかのように、少しも前に進まなかった。

 その瞬間、ソ連の赤い旗が描かれた戦闘機の放ったミサイルが、飛行機に命中した。燃え上がる炎の中で、智絢が再び兄に呼びかけた。

 “お兄ちゃん、もう一度会いたかった”

 智絢と飛行機が赤々とした煙に呑(の)まれていく。

 智敏は目を開けた。

 体を起こし、両手で口を覆う。もう何度目か。もはや智敏にも分からなかったが、この夢を見るたびに、彼は人知れず、すすり泣いた。

 その泣き声は決まって、オシポーヴィチの名を叫ぶ憎悪の咆哮(ほうこう)へと変わった。そして智敏は、拳の皮が裂けて血に染まるほど部屋の壁を打ち続け、沸き立つ胸の内を晴らすのだった。

 「オシポーヴィチ、オシポーヴィチ!」

 ガンッ、ガンッと壁を打つ拳の音で目覚めたのか、隣の部屋から物音がした。

 智敏が涙をこらえて唇を噛(か)みしめていると、隣からささやき声が聞こえてきた。

 「話してみなさい」

 文(ムン)の声だった。

 なぜか逆らいがたい気持ちになった智敏は、ドアの傍らの鉄格子へと向かった。

 智敏が近づくのを待っていた文は、顔こそ見えなかったが、これ以上ないほど安らかな口調でもう一度ささやいた。

 「言いたいことを言ってみなさい。苦しみは、噛みしめれば噛みしめるほど、和らぐものだから」

 文という奇妙な人物は、不思議なことを言った。

 普通なら、むしろ苦しみをぬぐい去れなどと言うものではないのか。智敏は鉄格子にあごを当てたまま黙っていた。

 「祈祷とはそういうものですよ。神に苦しみを打ち明けて、解いていくのです。ただ、あなたは祈祷が好きではなさそうだから、私に話してみなさい」

 「神サマみたいなこと、言わないでくださいよ」

 智敏はあざ笑った。

 しかし不思議なことに、それほど強い反感は覚えなかった。普段から宗教は好ましく思っていなかったが、今は誰でもいいから、胸の内を吐露したいと感じた。

 ただ、高ぶった心を抑えることができず、耳当たりの良い言葉を吐くことなどできなかった。

 「じいさんよ、その神サマってのは、何にもしちゃくれませんよ。俺の親父が死ぬのを止めてくれなかったし、妹の乗る飛行機が爆発するのを防いでもくれなかった。それどころか、俺をソ連に行かせてくれもしない。この犬小屋みたいな監獄に閉じ込めておくだけさ」

 「……」

 「全知全能の神サマも、偉大な大韓民国も、何にもしちゃくれない。俺自身がしなきゃならないんだ。俺はソ連に行かなきゃならない。オシポーヴィチ。あいつを殺す。誰もソ連を罰することをせず、口で騒ぎ立てるだけだ。せいぜいねじり鉢巻きで道端に出て、迷惑がる通行人に向かって声を張り上げているにすぎない。あちこちの国に、ニュースのネタを提供してるだけさ」

 「……」

 「ハハッ、じいさんは、ソ連が7年以内に滅びるって言ったよな。そういう発表をし続ければ、世論なんかがソ連を崩壊させてくれるって? 俺は学問なんてまともにしたことのない人間だけど、それが夢のような話だってことくらいは分かるよ。そんなことを待っていたら、700年はかかるだろうな。いや、そうはさせない。俺がやるんだ。俺があの野郎の脳天をかち割って、ソ連に復讐(ふくしゅう)してやる。誰もやろうとしない復讐を俺がやる。俺はソ連に行かなきゃならないんだ」

 「……」

 「じいさんは新聞社を持ってるんだろ? 有名な教授だってあごで使うじゃないか。ソ連を倒すって言ったよな? それなら、俺がやってやるよ、この俺が。だから俺をソ連に送り込んでくれ。あんたならできるだろう」

 文は静かに聞いていた。

 ひとしきり叫び終えると、智敏は鉄格子にもたれて座り込んだ。彼が徐々に落ち着きを取り戻した頃、文が口を開いた。

 「狙っているのは、オシポーヴィチというのかね?」

 「ああ、そうだよ」

 「なぜオシポーヴィチなのだ? 書記長ではなく?」

 智敏はプッとふき出した。

 学識のない彼でも、ソ連の書記長というものが、到底会うことなど叶(かな)わない、はるか彼方(かなた)の存在であることぐらいよく分かっていた。

 「オシポーヴィチだろうが書記長だろうが、何でもいいから、何とか俺を送ってくださいよ」

 文は答えなかった。

 智敏もまた、それ以上は言うこともなく、しばらくそこに座り続けていたが、そのまま眠り込んでしまった。

 翌日の夕食の時間、智敏は文のいるテーブルに向かい合って座った。子どものように駄々をこねたことが恥ずかしくて、彼は照れくさそうに謝罪した。

 「昨日はすみませんでした」
 すると、いつものように穏やかに笑うとばかり思っていた文が、智敏を見つめ、突然深く頭を下げた。戸惑った智敏は、やはり頭を下げて、問いかけた。

 「一体どうしたんですか?」

 「崔(チェ)さんは勇敢な方です。私は非常に驚きました」

 「え?」

 「年を経るにつれて、自分の祖国が哀れに思われるばかりでしたが、昨日の崔さんの話を聞いて、今さらながら、祖国の偉大さを感じました」

 「偉大さですって? 多くの国民を失っても、一言の抗議もできない大統領や、沸騰したと思ったらすぐに何もなかったように静かになる社会の、どこが偉大だっていうんですか?」

 「今、私の目に映っている祖国というのは、崔さんのことですよ」

 「え?」

 文はそれ以上は答えずに、いつもの穏やかな笑みを浮かべ、フォークを持ち直して食事を続けた。

 いずれにせよ、褒められたのだ。智敏は気分良く食事を終えた。そして文と共に散歩に出かけようとした時、ふと気になることが頭に浮かんだ。

 「なぜ刑務所に入ることになったんですか?」

 「脱税の容疑ですよ」

 「脱税?」

 思いも寄らぬ話に、智敏は笑いをこらえながら聞き返した。

 「大きな金額ですか?」

 「3年間で7500ドル、納税しなかったとされました。小さいといえば小さいし、大きいといえば大きいでしょうね」

 智敏はついふき出してしまった。

 世界中に信徒がいて、新聞社まで所有し、著名な教授をあごで使うこの老人が、たかだか智敏の学校の授業料にもならないほどの金額を脱税したとして、刑務所送りになるとは……。

 智敏はそれがどういうカラクリなのか、すぐに悟った。自分も、アメリカ政府の猿芝居に騙(だま)され、監獄行きを余儀なくされた身だ。

 世界的指導者であり、「統一運動」の総裁という文も、何かしらの陰謀に巻き込まれ、刑務所生活をしているに違いなかった。

 智敏はそこまで考えたが、ふと違和感を覚えて首をかしげた。

 この老人は、力のある人間らしいから理解できるが、自分はどうなのだ? 行く先々でつまらない暴行事件を起こしていただけなのに、アメリカのFBIまで関わってくる理由は何なのか?

 あれこれと思いを巡らしていると、ふと文が口を開いた。

 「崔さんはなぜ自分がここにいるのか、知っていますか?」

 胸の内を見透かすように投げかけられた問いに、智敏は思わず聞き返した。

 「えっ?」

 「崔さんがここで私と出会うことは、韓国人の切なる願いだったのかもしれません。自分たちの声になってくれという……」

 「韓国人のせいであることは間違いありませんが、その声になってくれというのは?」

 しかし、文は曖昧な言葉を残したきり、口をつぐんでしまった。智敏と並んで座ったまま、遠くに目をやるばかりだった。

 どれほどそのようにして過ごしていただろうか。部屋に戻ろうとした時、文が智敏の肩を軽く叩(たた)いた。

 振り返る彼を、普段は穏やかな文が、力強く抱きしめた。智敏は何とも言えない感情に、ただ言葉を失うばかりだった。

 しばらくの間、智敏を抱きしめていた文は、やがて背を向け、自分の部屋に戻っていった。

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 次回(6月22日)は、「釈放」をお届けします。


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