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心情開拓
心霊を育てる生活原則(8)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

1 牧会

▲李耀翰先生

主管性転倒(2

 ヨハネ福音書第556節に、「さて、そこに38年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また、長い間わずらっていたのを知って、その人に、『なおりたいのか』と言われた」という部分があります。「治りたいのか」とイエス様が聞いたのは、それによって彼が怒るかどうかを確かめてみたのです。

 池の水が動けば自分も入りたいのだけれども、もう38年もの間、病身で自分が入りかけようとすると、他の人が先に降りていくというのです。彼は全財産を費やして、しかも38年もかかって、治りたい一心で池のそばに来たのに、イエス様は「お前も病気が治りたいのか」と言って、とても蔑視(べっし)したのです。この、医者でも祭司長でもない、外面的には乞食みたいな青年が来て、「お前も治りたいのか」と言った時、病人にとってはどれほどの怒りが、血気が起こると思いますか。だれだって死んでもその生意気な言葉に対し、反抗しないではいられないはずです。

 しかし、その病人は、「はい、そうです。水が動く時、助けてくれる人がいないのです」と言って、イエス様が投げかけた言葉に対して耐え忍んだのです。そうした時に、イエス様は、「起きてあなたの床を取り上げ、そして歩きなさい」と言われ、その病人は癒(い)やされたとあるのです。

 これはどういうことでしょう。堕落した人間は、自分以下の人の頼みや命令を、不快に思う本能があるのです。この血気のため、今までサタンに捕まってきたのです。イエス様はこの人を蔑視して、それを試してみたのです。

 私たちは、上の人に蔑視されたとか、圧迫された時は、まだ我慢できても、自分より下の、あるいは自分より惨めな人に無視される時は、相当不快な気持ちになるのです。

 しかし、たとえ子供に命令を受けても、主の命令と思わなくてはならないのが、信仰者の態度なのです。そこにどんな秘密があるか分からないからです。いつでも重要で重大な問題は、信じられるところから来るのではなく、だれも信じられないようなところから現れるのです。だから、昔から、神が立てた代表者は、信じられそうな人を使ったことがないのです。神は反対に摂理して、だれもが信じようとしても、到底信じられない、そういう者を立てて使うのです。イエス様にしても、馬小屋に生まれ、しかもナザレという、当時の一番無知識な村で育ったというのです。

 だから今日においても、世界の摂理が韓国という国を背景にして始まったというのは、人々にはとても信じ難いことなのです。韓国という国は、世界に何も与えたことのない、生活面、科学面、精神面のどの面においても、世界にいいということをしたことのない国です。今も行ってみれば、かわいそうで惨めな、「人間の生活」と言うには遠い暮らしをしているのです。そういう後れた国で、このような神の摂理が始まったということは、とても信じられないのです。絶対と言っていいほど信じられないことを信じるというのは、正常な立場ではないのです。だから、この摂理を信じたならみな、「狂った」と言われるのです。

 人間は天使に主管されて落ちてしまったから、復帰は天使長以上に低い立場の人を立てて摂理してくるのです。だから、今まで一つの家庭で救うのにも、その家庭で一番信じられない者を神は立ててやってきたのです。例えば、アダムの家庭においても、長男の権力が強い旧約時代に、長男であるカインよりも、神はアベルを先に祝福したのです。だからこのアベルに、長男は頭を下げ、父母も主管されなければならないのだけれど、それは、とてもできるはずのない、難しいものだというのです。

 だから「血気」は、自分の目上の人に対しては案外起こりません。問題は、自分より下の立場にある人に対しての場合なのです。だからそこを努力して、自分以下の人に対して謙遜(けんそん)になっていかなくては、到底天の道を行くことはできないのです。

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 次回は、「カイン・アベル関係」をお届けします。


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