2021.07.23 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(9)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
1 牧会
カイン・アベル関係
教会の兄弟たちの間に、カイン・アベルという情的な位置が決まらないと、悩みがすぐに起こってきます。これは教会だけではなく、家庭的にもそうです。そしてまた、社会生活においてもそういう面が明らかでないと、すぐ霊的に暗やみが来て、影になるのです。
カイン・アベルという関係、教会でいえば教会長と兄弟たちとの間、また兄弟同士の間で、その位置が決まればいいけれど、それが原理的に組織できない場合があるのです。そういう場合は、聖書でいっているとおり、「他人をみな自分より以上の人と、謙遜(けんそん)に思いなさい」というのです。
教会長という立場は、天使長の使命をするのです。というのは、天使長はアダム・エバの言葉を盗んでいったから、復帰は、天使長がそれらのものをもってきて、神の息子、娘たちに渡すのです。だから、皆様に言葉を伝えるとか、教えるとかという立場は、天使長の立場なのです。これが復帰です。
今回、私たちがここに来た立場も、それと同じです。私たちが皆さんに何か自分の体験を証(あか)すというこの立場の目的は、皆さんがもっとこの時代の責任をもっていかなくてはならないから、補助しに来たのです。だから、私たちが主体者ではなく、皆さんが主体になっているのです。
教会長も、その立場なのです。その地方の人のために行ったのだから、その立場は仲保者であり、結局は、召使だというのです。だから、自分の主張を、自分以上に、神に孝行する方面に補助をしなくてはならない。それが教会長の責任なのです。天使長は、アダム・エバを神の子女として尊敬し、侍らなくてはならない立場です。それだから、韓国でも、教会長が兄弟に命令したり、怒ったり、自分勝手に兄弟を指導する時がしばしばあって、しかられるのですが、それでは自分も成長できないし、皆さんの行く道を邪魔することになるのです。
旧約時代には、神が僕(しもべ)の立場で人間に侍ってきたのです。イエス様も地上にあっては、ひとり子として暮らしたのではないのです。精神的秘密では息子の位置にあったけれど、実際生活においてはそうではなく、僕としての使命を果たしたのです。僕の立場として、そうして言葉を伝える時には、洗礼ヨハネの立場で証(あかし)したのです。洗礼ヨハネは天使長の立場だから、イエス様は3年間、内容はメシヤとして来たけれど、実際は天使長の立場で尽くしたのです。そして人々を、天の息子、娘という子女の立場まで連れていって、初めてメシヤの位置に立つのです。
教会長の場合もそうです。教会長も、天使長の使命を3年なら3年、7年なら7年やって、その間自分以上に神に対して忠誠なる子女を12名得てから、「自分が子女という立場を認められる立場になるか否か」という問題になるのです。
結論的に言うなら、精神的には神と縦的な因縁をもつ父の立場で、実際の生活では僕として天使長の使命を果たさなければ、本当の自分の位置に返ることはできないのです。子女の立場から天使長と落ちたのが堕落ですから、天使長の立場で侍ることを通して子女の立場に行かなくてはならないのが復帰の道なのです。
言ってみれば、アベル・カインという立場は、いつも決定していないのです。例えば、伝道に行く時、行かなくてはならない自分の体、それは自分の霊が体を通してどこかへ行く時で、その肉体はアベルになるのです。だから、いつも心だけがアベルということにはならないのです。仕事によって、使命によってその関係が決まるのです。
教会でいえば、経済的に責任をもった人がアベルになる時もあるし、伝道の時には説教する人がアベルになる時もあるし、要は、その仕事においてだれが中心になるかという問題になるのです。
家庭に帰ってきても、物事の責任をもった人がアベルになるのです。ですから、その時間はそのアベルに対して謙遜に喜びながら侍って、その人を慰めなくてはいけないのであって、食事の時でも、いつも自分が上であるという立場には立てないのです。
その時々の仕事によって、中心となる兄弟がアベルの立場で苦労するのです。そこに平和があるのであって、「一人だけがアベル」というように決まった考えをもったなら、その教会は苦しみ、家庭にも苦しみが来るのです。だから、そういう考えで解決したなら、各々教会生活においての自分の位置が分かると思います。そうすれば、おのずと人の位置を分かってあげなくてはいけません。そこで自分は自分と、自分だけの道理を通せば、それは固執になってしまって従うことにならないし、忠誠にならないのです。
難しい問題は、自分の信仰の秘密を相談しなくてはならないということです。これは中心問題なのです。中心的なことですが、自分の心からどうしてもわき上がらない。自分の家庭問題とか、人生問題とか、自分の信仰を、教会長に会う前には率直に言おうと思うのだけれど、いざ会って話す段になると、本心からわいてこない。しようがないから話さずに帰ってくるというのは、それは自分の立場を失ったことになるのです。
それで困って、自分一人で祈る。しかし天の立場では、その祈りを引き受けることができない。地上で、自分の兄弟を通してこずに、自分だけ知っていることを天に話しても、天は引き受けないのです。だから、その人は困るのです。こういう時、教会長がその人の心の扉を開けてあげなければいけないのです。
そういう秘密を打ち明けたくなる人と、そうでない人がいるのですが、私たちの先生の場合、だれでも、会ったら自分が一生涯信仰してきた秘密を、全部はき出すのです。仏教の人でも、キリスト教の人でも、儒教の人でも、どんな人でも先生の前に来れば、もう何でも言い出してしまう。先生には、そういう人の心の秘密を出させる力があるのです。
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次回は、「人間に悩む/一人が神を栄えさせる」をお届けします。