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心情開拓
心霊を育てる生活原則(4)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

1 牧会

▲李耀翰先生

自分の位置

 堕落した人間に、「あなたはサタンの息子ですか」と言ったなら、とても怒るのです。「ではあなたは神の子ですか」と言うと、「それもどうかな」と言うのです。では「あなたはだれですか」と聞くと、自分の位置をはっきり答えられないのが、堕落した人間の良心です。しかし、そこがあいまいではっきりしていなくても、神の立場を分かった信仰者においては、自分がだれのものかということは、自然に決まってくるのです。その主体者が決まっているから、自分の位置も同時に決まるのです。その自分の位置をいつも聖別して、いかに守っていくか、そこに人格という問題が出てくるのです。

 イエス様が胸の中に秘密としていたのは、「自分は一人息子である」ということです。それは、たとえ悔しいことがあっても、いくら木の下に寝転んでいても、また、乞食の格好をしていても、心の中では、自分は神の一人息子であるというその位置を、一生涯、十字架につけられるまで、一度も変えたことがないのです。いわゆる、信仰貞操です。

 その位置を変えてしまうと、人格的にも崩れるし、平面的にも人間関係が混線してしまうのです。自分の位置うんぬんというのは、一面を見ると傲慢(ごうまん)なようですが、ここを間違ってはいけないのです。例えば、映画館とか、とにかく大勢の中に自分一人がいた時、自分はどの位置でこういう所に来ているのかということです。こういうサタンの世の中で、自分は神の子だという信念とか、自分の立つべき位置を持続している信仰をもった人に対して、神はとても感謝するのです。だから神も、人間に恵まれなくてはならないのです。

 イエス様においては、いくら蔑視(べっし)されても、その心では自分は一人息子だという思いがかえって強くなるのです。

 しかし私たちは、悲しい立場に置かれると、だんだんと自分の位置を疑う人が増えてくるのです。もうどうにもならない立場になると、本当に神が一緒にいてくれるかどうか、疑ってしまうのです。自分の位置を、自分が疑うのです。そういう神との関係がない時にこそ、自分の位置を守って、神から干渉がなくても、神の息子だという、その責任をもっている者に対しては、サタンも頭を下げるのです。

 イエス様は、それを私たちに見せてくださったのです。私たちが信仰しているうちは、「いつもうれしい」と言っていいのですが、神から捨てられる時、また、捕まえてくださる時と、こういう波があり、私たちも波のように成長していくのですから、その時どういう実績を残すか、どういう蕩減(とうげん)条件を立てるか、これが神と私たちとの関係になるのです。

主管とは愛すること

 信仰の中での主管性ということも、結局ここにあるのです。自分の位置を知っている人は、絶対にサタンに主管されません。

 主管性の転倒は、堕落性です。今まで堕落人間が歩いてきたその生活を見てみると、主管者ではないものに主管されてきた人間なのです。物質に主管されたとか、悪主権に主管されたのです。結局地上には永遠というものを知っている人がいないから、目の前の金持ちとか、世間に主管されたのですが、悟ってみれば、主管されるべきでないものに主管されていた人間だったのです。

 私たちは、だれに主管されるべきか。この「主管性」は、愛を基盤として言う言葉なのです。子供は自分の親に主管されたがり、婦人は自分の旦那さんに主管されるのを喜びます。こういう意味の「主管」という言葉は、今まで使っていた「主管」とは違うのです。「自分は心からイエス様に主管されたい」とかと言って、それでイエス様が私たちの主管者になるのではないのです。愛の主体になって、結局、情の主体者となって、あがめられ、恋しがられる存在となって主管者になるのです。これが愛の主管性です。この主管性を立てなくてはいけないのです。

 だから、聖書に、人にいじめられるな、人に無視されるな、獄へ行っても人に徳を与え、愛を伝えるならばあがめられるとあります。これが、主管性を復帰することになるのです。だから、人のために自分を犠牲にするのは、主管性を復帰することに、その目的があるのです。

 結局、再臨の主は、どんな主管主、善の主権者なのでしょうか。それは結局、全人類を一つの家族のように愛に結ぶ主管者です。堕落していなければこういう愛の主管者に結ばれなくてはならない本来の人間が、堕落して、主管者でないものに主管されていたので、私の血の中には、それに対する恨みの要素が流れているのです。だから、そういうことに対して反発心があるのです。しかし、自分の信仰心の中で、主管性を立てなければなりません。

 自分は生命の道と思って教会へ来るという信仰をもっていても、その教会のだれだれを恋しがるという心がないと、主管性のない人なのです。結局、情の関係を結んでいない人が多いのです。そうすると、さっきも言ったように、見物しに来ることになるのです。だから信仰の生命というものは、自分の心の中で、わき上がる情なのです。情がどのように動くかという問題です。

 教会の中に、情と情とで結んだ、自分の父母よりも、兄弟よりも、情的に結んだ人がいなくては、天との関係がないのです。だから、イエス様がおっしゃった「自分の父母よりも、兄弟よりも私を愛せ」との言葉を、現在ではどう使うかというと、この教会の兄弟のうちで、だれが一番、公のために、教会のために、責任をもって苦労するかということになるのです。特にその中で、だれが一番私のために、責任をもつ観念とか、心情をもっているかということです。その兄弟に対して、自分の父母より、兄弟より、どれほど恋しいかということであり、これが観念でなく情的に結ばれたなら、主管性を探したことになるのです。基準を探したことになるのです。主管性というのは愛です。

 今まで私たちが使っていた「主管性」は、例えば軍隊で、命令をかける隊長が主管者だとか、命令して、その一つの命令に全部が動く、それを主管と言ったのです。国家の主権者が、全国民に対して、法律的に主管するとかは、愛ではないのです。強制的主管と愛の主管、後者が本然の主管性です。

 だから、私たちは教会へ通いながら、言葉によって今まで悲しんだ気持ちを脱いでも、見物人の立場であれば、喜びはないのです。しかし、何か得るものはあるのです。でも、霊的に接触していないのです。ただ来て、その恵沢を受けるだけです。光によって暗い部分がなくなるのと同じように、見物人の立場においても、いいのはいいのです。

 しかしうちへ帰ってしまえばどうでしょうか。自分の家で集まった時には、教会での気分をもち続けることはできないのです。だから、責任をもった人は、その一人が主管性につながっているかどうかを知らなければなりません。そして兄弟同士、お互いに報告したり、お互いに何か内面的、精神的に交わるその内容を導いてあげるのです。教会へ通っても、自分の家庭の内容とか、精神的悩みとかを全然話さないで、ただ教会へ通う人がいるのですが、そういう人は、何年通っても同じで、結局、サタンから離れられないのです。

 それを知って、その主管性につなげなさいというのです。伝道した人を、またやり直して、主管性を展開していくのです。

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 次回は、「犯罪行為の転嫁/神の心情」をお届けします。


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