2021.06.25 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(5)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
1 牧会
犯罪行為の転嫁
今まで堕落した人間は、悪いのは、「あの人がやった」、いいのは、「私がやった」と、人に褒められそうなものは、「自分がそこにいたからそうなった」と思うし、どうも困ることが起こった場合には、「私は知らないのだがなあ」と自分を正当化するのです。それは堕落の心ですが、本当の、本然の心はそうではないのです。イエス様がこういう時に、「世の罪は私が負うから」とおっしゃったのは、全然私たちと反対です。
私たちは、この世が滅びなければならないとか、私は聖なる者だが、この世はどうも汚いとか、この世に対して不平を言ったり、この世を裁いたりするのですが、イエス様は、裁くのではなく、責任を負われたのです。だから、自分が責任をとり、良いものは人に誉れを返すのが信仰者の立場なのです。
これが、なかなかできないのです。難しいのです。理論的には、「それもそうだ」と思うけれども、実際ぶつかってみれば、すぐ、自分も知らないうちに自分を隠してしまう時が多いのです。しかし、そこをはっきり自覚した時、泣きながら祈ったなら、天から協助してくださるのです。
祈りは、自分が堕落性に捕まって失敗した時に、「神様、こういう時にこうなりました」と実情を報告すれば、神様が天からその面を補助して、協助してくださるのです。だから、祈りというのは、具体的に祈らないと、その返事が来ないのです。
伝道するのも、一回ぶつかってみて、その人のために祈りながら日本を祈るとか、迫害を受けながら、蔑視(べっし)されながら、その人を思って祈りながら、人類のために祈るのです。だから、実体の条件がない祈りは、全然聞かれないのです。
神の心情
堕落人間は、うれしい時に、まず自分がうれしくなってしまうのです。でも、本当の本心がある人は、「神は今まで、どれくらいうれしかった時がありましたか」と聞いてみてから、自分が笑うのです。「私はこういう時うれしいのですが、お父様、どれくらいうれしかったですか」と聞いてみれば、神様から「今までうれしい時がなかった」という返事が来るのです。祈ってみれば、返事が来るのです。自分の生活で刺激を受けてうれしく思う時、自分の立場でうれしがってはいけないのけです。自分は神の立場で、神の一部分を分担していながら、自分の立場で喜んだなら、神様に失礼なのです。
仕事の全体の責任をもった神様に、一回問うてみるのです。そうしたら、神はまだまだ悲しんでいる。そうすると、神の全人類に対する心構えが分かってくるのです。そういう時に、神の心情を量れば、自分の個人の立場、個人の事情によって感情を動かすのはいけないということが分かってくるのです。
だから、反対に困る時、一番苦しい時、この苦しみを自分の苦しみと思ってはいけないのです。困った時、その困った事情を、自分のことと思ってはいけないのです。「他の人はみんな楽なのに、自分だけはどうしてこんなに」と思うのは、とても不幸な考え方です。
全人類が担いでいくその罪を、この弱い、信仰のない、惨めな自分にも、一部を任されたことを感謝しながら、いくら自分に対して困ったことでも、この全人類が共に担いでいるのを、一部分自分も分かち合ったという立場を考え、全人類の責任をもつ救い主の立場を考えていかなくてはならないのです。
堕落した人間が罪を転嫁するのは、この罪は自分には関係ないと思うからです。結局、不平とか、人を裁くとかというのも、罪に対して関係ないように考えるからです。しかし、その人が責任者なのです。罪を犯した本人は、その罪とは関係ないと思い、また、その立場から逃れようと熱心に考えるけれども、結局、その罪人は本人なのです。
四大堕落性は、一口では話せないので、別々に分けて説明しているのですが、これを情的、生活的に応用しながら、条件を立てるのです。堕落性の説明を聞いていながら応用しないと、結局、元の自分のまま時間を流してしまうのです。
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次回は、「勘/感じても行動しない」をお届けします。