2021.06.11 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(3)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
1 牧会
だれが堕落性を洗ってくれるのか
教会の生活は、結局、堕落性を脱ぐためにあるのです。この堕落性は、神が、あるいはイエス様が解決してくれるのではなく、自分よりも罪の多い人が解決してくれるのです。
既成教会では、イエス様が私たちを救うと思っていますが、実際はそうではなく、自分以上に堕落性のある人でなくては、自分の堕落性を洗うことはできないのです。だから、生活においては、自分の一番嫌な人、好きでない人が、自分の堕落性を解決してくれる人なのです。
では、どのように脱ぐかというと、神の立場につかまって、そういう人から迫害を受けながら行く時、脱げるのです。一方をつかまないと、耐えきれません。
世の中の人は、一対一で衝突が起こった場合、それを喜ぶことはできないのですが、信仰者は、一方につかまれば、神の立場が分かるので、親切にしながら「ありがとう」と言えるのです。信仰者の立場は、平面的に見れば損害が多いのですが、それでも喜べるのです。それは、現在失うものより、永遠の世界において得るもののほうが価値あることが分かるからです。
聖書に、「十字架を担いで喜べ」とあります。しかしそうできず、「迫害を受けて不幸な気持ちが起きる」とか、「気持ちが悪い」とか言うのは、その人と同じ堕落性が、自分にも内在しているからなのです。そうでなければ、その人がかわいそうに思えてしようがなくなるのです。
サタンは、非原理の条件がある時に、やって来るのです。原理であるならば、サタンも称えるのです。だから悪いことが起こったりしても、それは必ず、その人に必要だから起こったということを忘れてはいけません。だから、信仰者には敵がないのです。
どういう邪魔があっても、「それは必ず自分に必要であるからぶつかったのだ」と思って喜んでいれば、そこで何か清算できるものがあるのです。神の立場から離れたなら、何の贖罪(しょくざい)もできません。
見物人になるな
自分の立場で伝道する人、自分の事情によって、趣味によって働く人は、結果が良くなければ気落ちしてしまいます。だから、結果が悪かった場合に気落ちする人は、その動機において、自分の立場で出発したことが露見するのです。
信仰は、立場が問題です。動機が問題なのです。
コツは神の立場にあるのに、この立場をしっかり結ばずに信仰する人が多いのです。こういう人たちを先生は、「見物人」と言われます。
公園に見物に行くというように、教会に見物に来た人たちには、信仰の立場を離れた人が多いのです。
例えば、モーセが60万の民を連れてカナンに行く時には見物人がたくさんいたし、イエス様が奇跡を行った時にも見物人がたくさんいたし、イエス様の弟子たちですら見物人だったのです。そのことはどこで分かったかというと、イエス様が捕まって十字架を担いでいく時、ペテロにおいては3回もイエス様を否定したことから、結果が分かったのです。
同じように、私たちが主のために献身的に働いて、結果が思いどおりにいかなかった場合、気落ちする人は、結局、この動機が違うのです。落ちても上がっても、喜ぶ必要もないし、悲しむ必要もないのです。なぜ神が、私たちを使っているかを理解しなければならないのです。それを、神の仕事を自分がやっていると錯覚してしまうのです。自分の仕事は自分自身がやっているのではないのに、人間は知らずに、うれしがったり、悲しがったりしてしまうのです。それは、神の立場に固く結ばれていないからです。その時は、動機が違うのです。
ここが、信仰者の一番の秘密です。すなわち、神の立場と自分との関係、これが「原理」を利用する人の秘密なのです。
だから神のほうで、手を出して捕まえてくださり、いつも神のほうで、信じなくてはいけないという証拠を下さるのです。
だれでも信仰を出発した日には、何か説明できない不思議な力を与えられたはずです。証拠がなければ、信仰するはずがないのです。そこにおいて結んだ立場を、もち続けること、それが信仰なのです。
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次回は、「自分の位置/主管とは愛すること」をお届けします。