2021.06.01 22:00
預言 15
奇妙な囚人
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金辰明・著
15 奇妙な囚人
ダンベリー刑務所は、それほど質の悪い囚人を閉じ込めておく所ではなかった。
だが、アメリカの刑務所に1年いるより韓国の刑務所に10年いたほうがましだと言われるほど、大部分のアメリカの刑務所における囚人同士の暴力には、想像を超えるものがあった。
特に体格が比較的小さい東洋人の囚人にとって、アメリカの刑務所はまさに地獄といえるほど、過酷な場所だった。
「チョイ(チェ)、今日もかわいがってやるよ!」
同じ監房に収容されている巨軀(きょく)の男が飛びかかってくるたびに、智敏(ジミン)は怒りが頭のてっぺんにまで込み上げた。
ありとあらゆる方法を試みたが、この獣のような男を撃退することはできなかった。
「もう1回やってみろ、俺もお前も死ぬことになるからな! この薄汚いくそ野郎!」
しかし、刑期の長いこの男にとって、刑務所内に怖いものなど何もなかった。
智敏の2倍にもなる体を持つ相手の男は、むしろ隠していた自分の小さなナイフを智敏の手に握らせた。
「へへへ、やれるもんならやってみろ」
その夜、智敏は生まれて初めて、祈祷というものをした。
「父さん、ごめんなさい。智絢(ジヒョン)、あの世では俺が永遠に守ってやるからな」
祈祷を終えた智敏は、口を開けたまま寝ているその男の喉めがけて、ナイフを振りかざした。
「ぎゃああっ!」
男は悲鳴とともに飛び起き、鉄格子に張りつくと必死に看守を呼んだ。
図体はやたらと大きく、凶悪そうに見える男だったが、不意を突かれ、完全に腰を抜かしていた。
大声で叫び続ける男に向かって、智敏は狼(おおかみ)のように飛びかかった。
「この野郎、お前なんか死ね!」
智敏はその男をめった刺しにした。だが、刑務所内で粗雑に作られたナイフの刃渡りはあまりにも短く、脂肪で覆われた男の体を貫通して致命傷を負わせることはできなかった。
しかし、ギャーギャーわめき立てる男の悲鳴と四方に飛び散る血は、刑務所内の耳目を集めるには十分だった。
歓声と口笛が飛び交う中で、智敏はナイフを放り投げると、男を容赦なく殴りつけ、踏みつけた。
「チョイ、下がれ!」
看守が駆け寄ってくると、智敏は相手の男を眺めて冷笑を浮かべ、すぐに彼から離れた。
涙で顔がぐちゃぐちゃになった巨体の男、そして看守に続いて、智敏は堂々と取調室へ向かった。
事件の調査では、智敏の立場が考慮された。
男の傷がさほど深くなかった点、ナイフは相手の物だったという点、看守の指示ですぐに離れた点などが、智敏に有利に働いたのだった。
特に、毎日暴行されていた、という智敏の主張が通ったことに加え、自分が腰抜けであることが露見するのを何よりも嫌がった相手の男の誇張された自白により、事件の大きさに比べて、智敏はさほど処罰を受けなかった。
このことがあって以来、刑務所内で智敏は一目置かれる存在になった。
どこから漏れたのか分からないが、彼がわずか1カ月の間に20件以上の暴行事件を起こし、FBI捜査官を3人も暴行して逮捕されたといううわさまで誇張されて広まったため、彼はたちまち大きな人気を得てしまった。
どこに行っても囚人らは智敏に挨拶をし、親切にするようになった。刑務所内の暴力グループさえも彼を無視することはできず、徒党を組んで何かをする際には、それとなく彼に了解を求めるのだった。
こうして肉体的には楽になったが、それとは反比例するかのように、精神的ストレスは溜(た)まっていくばかりだった。
オシポーヴィチ。この男に対する憎悪と執念は、監獄の中で完全に遮断されてはけ口を失い、毎日爆発しそうな勢いで、智敏の頭の中に渦巻いた。
唯一の生きる目標だった智絢の復讐(ふくしゅう)は、今や手の届かないはるか彼方(かなた)に行ってしまった。
出所後、アメリカから韓国に追放されてしまえば、二度と外国に行くことはできないだろう。
こうして一日一日を張り裂けんばかりの苦悩の中で過ごしていたある日、智敏は刑務所の所長から呼び出しを受けた。
「チョイ、一つ頼みがあるんだが」
所長は彼の前にコーヒーを持ってくると、至極柔らかな物腰で告げた。
所長が囚人を所長室に呼ぶなど、めったにないことである。さらにコーヒーまで振る舞いながらこちらの意向を尋ねてくるなど、とてつもなく難しい仕事か、重要な頼み事に相違なかった。
一体何のために、雲の上の存在のような所長が自分に低姿勢で接してくるのか、智敏は好奇心を抑え切れなかった。
「何なんですか?」
「君は韓国人だろう?」
智敏はうなずいた。
「それでなんだが……」
2人以外には誰もいなかったが、所長は声を潜めた。
「誰にも知られないように、ある人物の警護を引き受けてほしい」
「警護?」
おかしなことだった。警護とは、誰かを守り、危害を受けないように保護することを意味するのではなかったか。
それなら看守に任せれば済むことだ。むしろ看守こそ、それをすべき人間だった。
「そうだ。1人の囚人に張りついて、警護してほしい」
「その人は東洋人なんですか?」
所長が自分に警護を頼むからには、おそらく相手は東洋人のはずだった。
「韓国人だ」
「へえ?」
ダンベリー刑務所には、自分以外に韓国人の囚人はいないとばかり思っていた智敏としては、妙な気分だった。
「昨晩、入所したんだ。かなりの年配なのだが、看守のできることにはどうしても限界がある。君も知っているとおりね」
実際のところ、刑務所とはいっても、看守が囚人を完全に保護することは不可能だった。
ほかの囚人から受ける脅迫は、刑務所が禁じている7、8種類の行為に限定されるわけではない。計り知れない脅威と恐怖が、ありとあらゆる角度から迫ってくるため、看守には間違いなく限界があった。
「個人的に所長と親しい人なんですか?」
「いや、そうではない。しかし複数のルートを通して頼まれているものでね。何かあれば私としても、彼らに顔向けできないんだよ」
所長が感じている尋常でないプレッシャーを見て取った智敏は、その人物に対して興味が湧いた。
「何をしている人なんですか?」
「ムンだ」
「ムン?」
「ムーニズムをつくった、あのムンだよ」
「ムーニズムって何ですか?」
「彼がつくった一種の宗教だよ。それをムーニズム、信ずる人々をムーニーと呼ぶらしい」
智敏は内心では嘲笑しながら首を縦に振った。
刑務所で過ごしている身の上で、所長の頼みを拒絶しても、良いことなどは何もない。
それに「韓国人」という言葉に、若干の懐かしさが込み上げてこないでもなかった。
「何だかよく分かりませんが、仕事なら何でもやりますよ」
「おお、そうか。ありがたい。普通の人物ではないから、君も何かしら得るものがあるかもしれんよ」
「そういうことに興味はありませんが」
所長はすぐに、智敏の部屋を新しい受刑者の隣に移した。
普通なら2人で一つの部屋を使用するのに、わざわざ智敏と彼を同じ部屋にしないのは、新しい受刑者に独房を与えるための配慮であることが智敏には分かった。
次の日、智敏は食堂で配膳の列を観察し、当の韓国人を見つけてすぐ背後に割り込んだ。
目の前に割り込まれて文句を言おうとしたヒスパニック系の囚人は、相手が智敏であることが分かると、むしろ笑顔を浮かべ、会えてうれしいというジェスチャーをした。
「どうも、崔(チェ)です」
智敏が韓国語で話しかけると、前の男は振り返り、わずかに頭を下げ、穏やかな声で答えた。
「文(ムン)です」
智敏がトレーをつまんで手渡そうとすると、文は淡い笑みを浮かべて手を左右に振った。
「自分の物は自分で取りますよ」
ふっくらとした顔つきで、相当に慎み深い人間らしい。
所長からの特別な依頼であるのに加え、年を取った人物、さらには何とかという宗教の創始者だというから、一歩間違えば使用人扱いされるのではないかと思っていたが、そんな懸念は吹き飛んだ。
「ムショでこんな挨拶はどうかと思いますが、何はともあれ、歓迎しますよ」
文は軽く笑って答えた。
「妙な場所で出会う人は、貴い人ですよ。歓迎してくれてありがとう」
そのまま聞き流そうと思えば聞き流してしまえる言葉ではあったが、智敏は気分が良くなるのを感じた。
韓国から遠く離れた異国の地で、孤独な自分を貴い人と呼んでくれる同胞に会って、心が動かないはずがなかった。
智敏は自分なりの親切心でもって、外の青い芝生が目に入る席に文を案内しようとした。
しかし、文は逆に自分から汚い壁に面したほうに行って座り、智敏を良い席に座らせた。
“お、こりゃむしろ俺のほうに使いっ走りができたってことか?”
智敏が心の内でそうつぶやくほど、文は横柄に振る舞ったり、偉ぶったりすることのない人物に見えた。
食事中、何か自分の善意を示そうと思った智敏は、フォークを手に取り、人を刺す真似(まね)をしながら豪胆に言った。
「じいさんよ、厄介な奴(やつ)がいたら、隠さずにすぐに俺に言ってくださいよ。脅しなんかはもちろん、些細(ささい)な言いがかりとかでもね。見えるものは看守が解決してくれるけど、見えない部分は俺が解決してあげますから。所長さんに、くれぐれもよろしくって頼まれてるんでね」
文は穏やかに笑ったように見えた。
智敏も「仕事」がうまく運ぶように思え、気分良く食事を終えることができた。
その後も、文に対する印象は変わらなかった。文は常に慎み深く、自分がすべきことを徹底して行い、他人の仕事まで助けてやることもしばしばだった。
文は刑務所の食堂を掃除する仕事を任されたが、彼がその担当になってから何日も経(た)たないうちに、食堂はピカピカに磨き上げられ、漂っていた悪臭も跡形もなく消え去った。
「64歳にもなるじいさんが、若い奴ら10人を束にしたよりも仕事ができるなんて、どういうことだ? 刑務所の食堂がホテルのレストランみたいになっちまった!」
囚人たちは、脇目も振らずに食堂を磨き続ける刑務所最年長の囚人を見て、ひそひそとささやいた。そのうちに、彼がどこで何をしていた人物かを当てる賭けまで始められた。
「間違いない。食堂のことをよく知っている人間だ。食堂を経営していたんだ。あんなふうに暇さえあれば掃除しているのは、食堂をやっていた者の本能さ」
「何言ってるんだ。食堂には違いないが、オーナーじゃなくて従業員だろ。オーナーがあそこまで磨くわけがない。普通、従業員にやらせるだろ」
「おいおい、それならあのじいさんが自分の担当でもないトイレまで懸命に掃除してるのは、どう説明するんだ? どこだろうと掃いたり磨いたりしてるところを見ると、もともと掃除屋だったのじゃないか」
文が自分の担当範囲はもちろんのこと、他人が任された仕事まで、黙々と骨身を惜しまずにこなしていく姿を目の当たりにし、囚人たちの間で彼の評判が少しずつ上がっていった。
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次回(6月8日)は、「おかしな面会」をお届けします。