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預言 14

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金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

14 罠

 ソフィアが去った後、智敏(ジミン)よりももっと切実にソ連大使館からの連絡を待ちわびたのは、ケンシントンだった。

 彼は毎朝起きると、まず郵便箱をのぞきに行き、朝から晩まで、数え切れないほど確認をした。

 しかしどういうわけか、モスクワからもワシントンのソ連大使館からも、智敏宛ての郵便物は何も届かなかった。

 「どうなっているのだ? 参事官ともなれば、君のビザくらいは簡単に取得して送ってくるはずなのに」

 智敏もまた、モスクワからの連絡を今か今かと待っていた。

 ビザが届いたとしても行きはしないという思いがある反面、それが届かない理由が気になり、怒りも湧いてくるのだった。

 智敏はソフィアが残していった腕時計を1日に何十回も眺めている自分に気づき、苦い笑みを浮かべた。

 この二律背反の感情のどこに自分の真実があるのかは分からない。だが、ビザが届かない事実を前にして、智敏の心は果てしなく沈んでいった。

 しかし、彼はそんな心の内をおくびにも出さなかった。智敏の複雑な心境とは対照的に、ケンシントンはソフィアを、ただモスクワに行くための手段としてしか考えていなかったため、二人の間には既に深い溝ができていた。

 ソフィアのことについて、智敏はケンシントンと話すのをできるだけ避けようとしていた。

 しかし時間の流れが、次第にソフィアを忘れさせるようになった。

 再び独りで過ごすようになった智敏は、改めて自らの過去と向き合った。そのたびに彼は智絢(ジヒョン)に思いを馳(は)せ、自分がどこに向かうべきかをはっきりと理解した。

 「馬鹿なことを!」

 ある日、智敏はソフィアの腕時計を外して机の引き出しに押し込み、覚悟を決めた。

 もしビザが本当に届き、モスクワに行っていたとしても、自分はソフィアと彼女の家族を顧みることなく、智絢の仇(かたき)であるオシポーヴィチを殺害することにのみすべてを捧(ささ)げていたはずだ、と気持ちを整理した。

 今、改めてできることといえば、ロシア語の勉強しかなかった。智敏はもう一度それだけに没頭することにした。

 日々上達する彼のロシア語の実力は、語学学校でもすっかり評判になっており、智敏は自分に関心を寄せる新しい女性講師と、次第に一緒に過ごすようになった。

 ソフィアと歩んだ道のりをそっくりそのままたどっている自分の姿に、智敏は一方では驚きもしたが、また一方では、ソフィアのことをある程度は頭の中から消し去ることができた。

 しかしケンシントンは、智敏がソフィアを通じてロシアに入るという望みを、決してあきらめてはいなかった。

 彼は現職にある同僚の手を借りて智敏のアメリカ滞在ビザを延長し、毎日郵便箱を確かめながら、ソ連大使館からの連絡を待ち続けた。

 そんなある雨の降る午後、語学学校の建物の中に入った智敏は、エレベーターの前に立っていた男にいきなり腕をつかまれた。智敏は体をこわばらせた。

 「何だ!」

 「おとなしくしろ!」

 男はいきなり智敏の腕を後ろに回そうとした。

 「誰だ、お前は!」

 智敏が本能的に腕を振りほどいて相手の腕をつかむと、男は手荒く智敏の胸ぐらをつかみ上げた。

 智敏は両手でその腕を外そうとしたが、男がますます力を込めてきたため、本能的に、相手の腹部を殴りつけた。

 「うぐっ!」

 男は悲鳴を上げて床に倒れ込んだ。

 「一体何なんだ、お前は?」

 その時、どこから現れたのか、さらに2人の男が智敏の両腕をつかみ、そのうちの1人が身分証をぐいっと掲げた。

 「動くな。FBIだ」

 「FBI? なぜこんなことをする?」

 床に倒れていた男が起き上がり、服をパンパンとはたきながら言った。

 「聞きたいことがある。オフィスまで来てもらおう」

 「何を聞こうっていうんだ!」

 「韓国政府から、お前が危険人物であるとの通告が入った。ついては、いくつか質問に答えてもらわねばならない」

 「何のことだかさっぱり分からないが、来いというなら行こう。やましいことなど何もない。でもその前に、あんた方の身分証を、もう一度見せてくれ」

 3人のFBI要員は当初とは違い、智敏をさほど手荒く扱うこともなく、オフィスに到着してからも穏やかに接した。

 しかし、智敏はカメラのある取調室で、2人の捜査官から尋問を受けなければならなかった。

 「妹が大韓航空007便撃墜事件の犠牲者なのか?」

 「はい」

 「韓国で24件の暴行事件を起こして、取り調べを受けたというが」

 「正式な取り調べではなく……。警察署には何度も連行されましたけど」

 「それが、全部で24回も?」

 「たぶん……」

 「起訴されたことは1度もないということか?」

 「はい」

 「妹を亡くして自制心を失い、乱暴な行動をしたと?」

 「はい」

 「アメリカに来てからは、暴行などの事件は起こさなかったのか?」

 「全く起こしていません」

 「アメリカにはなぜ来た?」

 「妹の養父母に会いに来ました」

 「それなのに、なぜロシア語を勉強しているんだ?」

 「何もしないでいるよりは、何でもいいからやってみたかったんです」

 「驚くほど熱心にやっているそうだな。退屈しのぎのロシア語の勉強を、それほどまで狂ったようにするなど、おかしな話じゃないか?」

 「それが俺の性格ですから」

 「もしや、ロシアに行くという目的があるんじゃないか?」

 「違います」

 「参事官の娘、ソフィアとはどういう関係だ?」

 「講師と生徒として、ロシア語をさらに集中して勉強するために、授業の時間以外にも会っていました」

 「一緒にロシアに行くという計画はなかったのか?」

 「そんなものはありません」

 「参事官やソフィアと、政治、外交、安保などの話をしたことはあるか?」

 「ありません」

 「彼らのことをおかしいと思ったことはないか?」

 「おかしいというのは、どういう意味ですか?」

 「言葉のとおりだ」

 「ありません」

 「分かった。尋問を終わる」

 彼の懸念に反して尋問は短く、捜査官の物腰は柔らかだった。

 しかし、取調室から出た智敏の手に手錠が掛けられた瞬間、彼は驚きのあまり言葉を失った。

 「何だよ、これは?」

 「お前はアメリカの法律を破ったので、裁判を受けることになる」

 「何だって? 俺が何をしたっていうんだ。ロシア語の勉強をしたことが罪になるのか?」

 机に座ってこの光景を眺めていた責任者らしき男が手で合図をした。

 捜査官は智敏を彼の前に連れて行った。

 「非常に危険な人物であるため、監視または隔離の必要があるとの公文が、君の国の政府から届いている」

 彼は机の上にある書類を智敏に突きつけた。
 「リパブリック・オブ・コリア。確かに君の国の印章だろう?」

 責任者の差し出した書類を見つめる智敏の顔がみるみるこわばっていった。

 「一体なぜ俺が危険なんだ? アメリカでは静かにしていたじゃないか」

 「君のアメリカ入国自体が危険な行為だ。考えてもみたまえ。1カ月に24件もの暴行事件を起こした外国人が入国したというのに、危険ではないと考える政府がこの地球上のどこにある?」

 「さっき話したじゃないか。妹を亡くした怒りによる、些細(ささい)な事件だったって」

 「韓国では些細かもしれないが、アメリカでは大きな事件だし、君は極めて危険な人物だ。不当だと思うなら、判事の前で訴えることだな」

 「何なんだ、これは!」

 智敏は何がどうなっているのか、見当がつかなかった。

 手錠をはめられ、留置場に入ってやっと、これは韓国の検事と領事僑民(きょうみん)局長の仕組んだ罠(わな)であるということに思い至った。

 厄介者の自分を相手にしても韓国では始末に困るため、願いを聞いてやる振りをしてアメリカに送り出し、その上で危険人物であると通告したのだ。

 「狡猾(こうかつ)な奴(やつ)らめ!」

 智敏は呆然(ぼうぜん)としながらも、同時にやるせなさが込み上げてきた。自国の国民を外国に送って処罰を受けさせるとは……。

 「覚えてろ! このくそったれどもめ!」

 しかし、智敏を本当に苦しめたのは、祖国の裏切りでも、危険人物云々(うんぬん)というFBIの脅迫でもなく、まだ何の便りもないソフィアのことだった。

 もし裁判を受けて刑務所に入ることにでもなれば、ソフィアとは完全に断絶されてしまうかもしれない。

 いまだに届いていないビザを期待しているわけではなかったが、もし仮にビザが届いたとしても、何の役にも立たなくなってしまう。

 終日、留置場で過ごしながら、智敏の頭の中ではありとあらゆる想像が飛び交った。結局、智敏は、ビザとソフィアを潔く手放すことにした。

 “智絢、すまない。もう二度とフラフラしないよ。だらしない姿を見せはしない。何があってもソ連に入ってオシポーヴィチを捜し出し、奴を殺して、俺もお前のもとに行くからな。待っていろよ”

 智敏は両拳をぎゅっと握りしめ、鉄格子に強く打ちつけた。

 「それからお前ら、見てろよ。俺を黙らせるためにアメリカに送りやがって。俺は引き下がらないからな。お前らの望むとおり、何年でも何十年でも、ここで監獄に入ってやる。なぜかって? なぜ悪あがきしないのかって? なぜお前らに頭を下げて謝ろうとしないのかって? 復讐(ふくしゅう)するためさ。俺が監獄に行けば、その分、お前らの受ける報いも大きくなるだろうからな! 韓国の国民を外国に送って処罰させるなんて、お前らそれでも韓国人か? このくそったれどもめ」

 智敏の憤怒は行き場を失い、留置場のあちこちにこだました。起訴されて判事の前に引っ張り出された時も、それは消えることがなかった。

 「判事、俺はアメリカでいかなる不法行為もしていません。韓国の腹黒い奴らが、パスポートとアメリカのビザを出しておいて、ここで処罰を受けさせるように仕組んだんです」

 「どういうことだね?」

 「韓国で些細な暴行事件を起こしただけで、アメリカでは何の過ちも犯していないということです」

 「それなら、これは何かな?」

 「あっ!」

 判事が手にした大きな写真には、智敏に腹を殴られている捜査官の姿と、その男が床に倒れている様子が写っていた。

 「な……!」

 なぜ捜査官がいきなり飛びかかってきたのか、智敏はようやく理解することができた。

 すべて、自分をはめるための罠だったのだ。判事はしばらく写真と書類に目を走らせた後、判決を言い渡した。

 “コネチカット州ダンベリー刑務所で1年以内の予防拘禁とする。司法省は拘禁期間満了後、追放審査の義務を負うものとする”

 判決が宣告されるや、智敏は大声を上げた。

 「予防拘禁だって? 何かやらかしそうだからムショにぶち込むのか? お前ら、一体何のために俺をはめた? なぜ俺を捕まえるんだ? 何の陰謀なんだ!」

 智敏は野獣のごとく抵抗したが、すぐに連行されてしまった。

 知らせを聞いて大急ぎで飛んで来たケンシントンは、かえって智敏に怒りをぶちまけた。

 「FBI捜査官に暴行を加えただと? 一体何を考えているんだ! 私にだってどうしようもないぞ!」

 「はめられたんです!」

 「はめられた? 何を言っている。韓国政府がお前を危険人物だと証明する文書を送ってきたのに?」

 「なぜそんな馬鹿げたものを送ってきたのか、俺にだって分かりません」

 「1カ月に24回も暴行事件を起こしてるんだ、弁明の余地などないぞ。ジニーの兄だからこそ、実の息子同然と思っていたのに、お前がこんな人間だとは思わなかった」

 「一度でも心からそう思ってくれたのなら、俺を信じてください。これは罠なんです!」

 「なぜお前相手に、わざわざFBIが罠を仕掛けるんだ!」

 ケンシントンは烈火のごとく怒り狂い、帰っていった。

 けれども智敏は、彼が相当な額の領置金を置いていったと看守から聞き、胸を詰まらせた。

 理由はともかく、智絢の兄として、ケンシントンにみっともない姿を見せてしまったことが悔やまれた。

 しかし、一体いかなる理由でFBIは罠を仕掛け、自分を刑務所に送ったのだろうか。

 智敏は刑務所で1カ月間、その理由を考え続けたが、何一つとして思い当たるふしはなかった。

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 次回(6月1日)は、「奇妙な囚人」をお届けします。


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