2021.05.18 22:00
預言 13
ソフィア
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金辰明・著
13 ソフィア
30年という歳月を、アメリカの情報分野の仕事に費やしてきたケンシントンの情報収集能力は、やはり並外れたものがあった。
「オシポーヴィチという奴だ。事件が起きた一週間後に基地を去ったそうだから、ソ連の奴らとしても、かなり負担に思ったようだ。ヨーロッパのとあるジャーナリストが彼にインタビューをするため、ヴォルガ川流域を訪ねて行ったんだが、会えなかったという情報がある」
「なぜ彼は基地を去ったんでしょうか?」
「ソ連の奴らのすることなど分からないよ。ともかく今は外部のあらゆる耳目に触れないように身を隠している状態だ。誰にも見つからない場所で勤務をしているのかもしれないし、縁もゆかりもない所で隠遁(いんとん)生活を送っているのかもしれないな」
「そう見せかけているだけじゃないんですか? 手柄を立てた英雄が隠遁生活に追いやられるなんて、あり得るのでしょうか? 俺たちにとっては殺人鬼で、妹の仇(かたき)ですけれど、ソ連では英雄であることに間違いないわけでしょう」
「ソ連というのは何とも分からん国だよ。常識で考えたら必ず判断を誤る。君の決心を聞いてすぐ、記事を書いた記者を追ってみたんだが、ヴォルガ川の中流地域と言うだけで、それ以上は口を割らないそうだ」
「いずれにせよ、そのパイロットがまだ生きていて何よりです」
智敏(ジミン)の言葉にケンシントンは、はっとした。
一時の気の迷いで無茶を言ったとしても、この青年は途中であきらめるかもしれないという思いが、完全に消え失せた瞬間だった。
たとえ年若くとも、オシポーヴィチを殺すと決意した智敏の意思を変えることなど、できそうになかった。
しかし、現実はあまりにも厳しかった。
ケンシントンが長い間、情報分野の中で生きてきたとはいえ、今はもう現役ではなかったし、何よりも智敏が韓国人であるという事実が、大きな障害として立ちはだかっていた。
ほかの国に入国するために身分を偽装することは、さして難しいことではなかった。しかし、鉄のカーテンの向こう側であるソ連のまっただ中に入り込むために韓国人がすべき偽装となれば、これは全く次元の違うものだった。
それに加え、たとえ偽装がうまくいったとしても、ソ連の厳重な監視体制のもとでは、入国した途端に逮捕されてしまうのが目に見えていた。
ケンシントンは身分の偽装を請け負う業者はもちろんのこと、人を介してソ連大使館にまで当たり、利用可能なルートがないか探ってみたが、みな首を横に振るばかりだった。
四方八方に手を尽くしてみたものの、事の大きさから、容易ではないことが明白になり、彼はがっくりと肩を落とした。
しかし、智敏はあきらめなかった。
「とりあえずロシア語の勉強をしておきます」
智敏は市内の語学学校に通いながら、とてつもない集中力でロシア語を習得していき、周囲を驚かせた。
その中でも一番驚いたのが、1カ月前からそこで働き始めていた新任女性講師のソフィアだった。
「モスクワに恋人でもいるみたいね」
「いいえ」
「それなら、どうしてそんなに一生懸命ロシア語を勉強するの? そんなに狂ったように勉強する人には、ロシアに必ず行かなきゃいけない理由があるものよ」
智敏は言い繕った。
「俺はロシア文学が好きなんです」
「ロシア文学をしっかり鑑賞したくて、そんなに熱心に勉強しているの?」
「ええ」
「嘘(うそ)つきね。それなら読解クラスに入らなくちゃ。ずっと会話ばっかりやっている人がロシア文学ですって?」
「そういうこともありますよ」
「そういうこともある? ふふ、じゃあ『ドクトル・ジバゴ』を書いたのは誰?」
「……」
「ボリス・パステルナーク。私の一番好きな作家よ」
「……」
「ドストエフスキーの『悪霊』に出てくる主人公の名前は?」
「……」
「ほら。あなたとロシア文学は、全く結びつかないわ。絶対あなたにはロシア人の女の子がいるのよ。毎日指折り数えながら、あなたが現れるのを待っている子がね」
智敏はふと、挑発してみたくなった。
「それなら、あなたがなってくれますか? 俺のロシアの彼女に?」
「そうねぇ。私にそんな魅力があるかしら」
「もちろん。綺麗(きれい)ですよ。しかも名前が素敵だ。ソフィア・アレクセーエヴナ。名前だけでもう、雰囲気がありますよね」
「ふふ。そうよ。ソフィア・アレクセーエヴナはロシアの皇女の名前なの。彼女はとても優雅で気品高い女性だったわ。でもその身分に翻弄されて、女性としては幸福に生きられず、摂政となって悲劇的な最期を迎えなければならなかったの」
「俺なら、あなたを幸せにできると思うんですけどね」
「本当?」
智敏は純朴そうな表情でうなずいた。
ソフィアの目元にはどこか東洋的な魅力が漂っていた。
金髪を後ろで結わえ、自分をいたずらっぽく見つめてくるソフィアの青いまなざしと向き合い、智敏は初めて、胸の高鳴りを感じた。
しかし、智敏は自らの人生の目的を思い返し、ソフィアに対する感情をかき消した。
「どうしましょう。私はもうすぐモスクワに帰るのに。私を追いかけて来る? モスクワに?」
「え?」
「来年には戻らなくちゃならないの」
智敏は目を見開いた。
「もともとアメリカに住んでいるわけじゃないんですか?」
「違うわ、ロシアから少しの間だけこちらに来てるのよ。モスクワ大学に通っていたんだけど、父がアメリカに来ることになったから休学してついて来たの。アメリカの文化に触れてみようと思って。父は大使館に勤めてるわ」
「それで、お父さんと一緒に帰国すると?」
「ええ」
「お父さんは大使館でどんな仕事をしてるんですか?」
「参事官よ」
「参事官っていったら高位の職ですよね?」
「まあ、そうね」
「それなのに、どうして語学学校でお金を稼いでいるんですか?」
「稼ぐチャンスがあるなら稼がないとね。父は父だし、私は私だから。それに何より、ここは安全だわ」
「それはそうでしょうね。ロシア語を習いたい人たちばかりが来るんだから」
「ええ。ここは気持ちを楽にして働ける唯一の場所よ。飛行機撃墜事件で、どこに行ってもアグリー・ロシアンになってしまったけど、ここの人だけは私たちを尊重してくれるわ。私たちの文化と言葉を教えるっていう自負心も持てるしね」
「どうしてもっと早く、俺の目の前に現れてくれなかったんですか。ロシア語を始める時に会っていたら、今はもっと上手になっていたはずなのに」
「ふふふ。あなたのロシア語は十分、すごいスピードで上達しているわ。きっと韓国人は頭が良いのね」
これをきっかけに、智敏とソフィアは急速に打ち解けていった。
25歳の男と23歳の女が毎日顔を合わせるのだから、親しくなるのは当然だが、二人がとりわけ急速に親密になったのは、お互いが相手を必要としていたからだった。
もちろん智敏には、もしかしたらソフィアを通してソ連に入る道が開けるかもしれないという期待があった。
ソフィアはソフィアで、アメリカで人種差別を受けて息苦しさを覚えていたところに、実直で気さくな韓国人青年に出会って親しみを感じ、その飾り気のない男性的な魅力に惹(ひ)かれていた。
ソフィアは智敏のクラス以外、ほかに授業を受け持っていなかったので、二人は同じ時間に始まる授業を同じ時間に終えて、ほぼ毎日、デートをしながら過ごした。
授業が終わると、ワシントン全体が二人のデート場所になった。ソフィアは智敏を博物館に連れて行って絵の説明をし、劇場と図書館を見せ、マーケットに連れ出して人々の暮らしている様子を見せて回った。
智敏に新しい世界が開かれた瞬間だった。
「ジミー、もうあなたのいない未来なんて想像すらできそうにないわ」
「ソフィア、俺の過去は全部、君に会うために準備されたものだったんだ。それ以外には、何の意味もないよ」
「ふふふ。あなたには言葉の才能があるのね」
「本気なんだけどな」
智敏はロシア語の授業への熱意と同じくらいの情熱を、ソフィアにも注いだ。
ケンシントンもまた、ソフィアの存在を歓迎した。どんなに勉強をしたところでロシアに行く方法はないとあきらめかけていただけに、ソフィアこそロシアに行くことのできる唯一の希望だと喜んだ。
初めはソフィアがスパイかもしれないと懸念していた彼も、今では智敏からソフィアの話を聞くたびに、むしろ彼女のことを褒めちぎった。
「ドイツとオーストリアで勤務をしていた頃に、ロシアの女はたくさん見てきたが、ソフィアは全く別の国の人間に見えるな。やはり参事官くらいの娘となると、違うようだ」
「でも、申し訳ないと感じることが多いんです。彼女が俺を純粋に想(おも)ってくれているのと同じくらい、俺が彼女に対して純粋かどうかを考えてしまうと……」
「君の正直な気持ちはどうなんだね?」
「よく分かりません」
ケンシントンは呼吸を整え、しばらくの間、葉巻をくゆらせてから、重苦しい声で言った。
「私たち夫婦は君のことを実の息子のように思っている。ジニーがあの世で私たちに頼みたいことがあるとすれば、それはきっと、君に対して自分と同じように接してほしい、ということだろう。君がソフィアと親密になって幸せそうにしている姿を見て、一緒に喜ぶことが私たち夫婦の務めだというのに……胸が締めつけられそうだ。ジニーのために何もできないなら、復讐(ふくしゅう)することもできないのなら、死んだほうがましだという思いが湧いてくるのを、どうすることもできない。すまないが、君がソ連の女と目的もなく親しくなるのは、私にとって大きな屈辱だ。正直に言えば、ジニーの兄である君も、私と同じ思いであることを願うよ」
「……」
二人で歩き回ったワシントンの冬が終わりつつある頃、ソフィアは語学学校を辞めた。
「父があなたに会いたがっているの」
若草色の季節がポトマック川を再び彩り始めたある日、浮き立つような表情で、ソフィアは智敏を家に招待した。ソフィアの父親が大使館で準備したディナーは素晴らしかった。
「ソフィアがあまりにも夢中になっているものだから、どんな青年なのか会ってみたかったんだが、こうして会ってみて、うちのソフィアの目は顕微鏡よりも確かなことが分かったよ」
参事官はすぐに智敏を気に入った。
「俺もソフィアが好きです」
智敏は父親が自殺したことと、妹が大韓航空007便の事故で死んだという話を除いて、すべてをありのままに話した。
「英語がとても上手で、ロシア語もすごく上達が早いのよ。きっと生まれつきの才能の持ち主なのね。世の中というのはいつも試練を与えるのよ、才能のある人にね」
ソフィアの母親もまた、両親がいない中で育ったという智敏の話を聞いても、蔑むような気配は一切見せなかった。
「私たちはもうすぐ帰国してしまうが、モスクワに一度遊びに来ないかね?」
妙な気分だった。
一方では飛び上がるほどうれしいのに、もう一方で、行くことはできないと思った。自分がこの家族に招待されてソ連に行けば、オシポーヴィチを捜し出して殺害することが、すなわち、この家族を破滅に追い込むことにもなる。
そのため、絶対に行ってはならないという思いから、智敏は即答できずにいた。
「ジミー、どうしたの? モスクワに行きたいって言ってたじゃない?」
喜びから一変したソフィアの驚きの声にも、彼女の両親の怪訝(けげん)な視線にも耐えられなくなった智敏は、とっさに言い訳をした。
「でも、迷惑がかかるかと……」
「迷惑って、何が迷惑になるの? 早く『ハラショー!』って答えて。ビザは父が何とかしてくれるわ」
智敏は自分をじっと見つめている参事官にぺこりと頭を下げ、ことさらに快活な声で答えた。
「ありがとうございます。ものすごく行きたいです」
「そうか、それなら乾杯をしよう」
四人はグラスを持ち上げた。
「モスクワで!」
智敏はそのお返しに、ケンシントン夫妻の許しを得てソフィアを家に招待した。
自らを養父と名乗ったケンシントンはプレゼントまで準備して、ソフィアが帰る際に持たせてやった。
「私がジミーをお二人のもとから連れ去ってしまったら、どうしますか?」
「好きなようにしなさい。そうしたら私たちも、モスクワ観光にでも行くとしようか」
「はい! お二人とも来てくださいね。ジミーと一緒にお待ちいたします」
一見ごく普通の挨拶のようだったが、ケンシントンはソフィアと言葉を交わしながら、智敏とモスクワを結びつけることを忘れなかった。
春雨が広場をしっとりと潤したある朝、何度もデートを重ねたポトマック川の桟橋で、ソフィアは今にも泣きそうな表情をしながら、智敏に腕時計を渡した。
「午後にはモスクワ行きの飛行機に乗らなくちゃいけないの。ジミー、この時計を絶対に外さないでね。時計を見るたびに私のことを思い出してね」
「どうしよう、俺はプレゼントを準備できなかったのに」
「大丈夫よ、私はあなたの顔を絶対に忘れたりしないわ」
二人は熱いキスを交わした。
「モスクワに到着したらすぐにビザを取って送るって父が言ってたわ。ビザが出たらすぐに来なくちゃだめよ」
智敏は今この瞬間、真実を告白すべきだという強い衝動に駆られたが、涙に濡(ぬ)れたソフィアの瞳を前にすると、到底そうすることができず、黙ったままうなずいた。
「ほかの女性と付き合ったりしたらだめよ。見つめるのもなしね」
智敏の心情など知る由もないソフィアは、天真爛漫(らんまん)に小指を差し出した。
「約束よ」
智敏は同じく小指を差し出しながらも、自分の心が果たしてどこを向いているのか、分からずにいた。
混沌(こんとん)。すべてが混沌としていた。
プレゼントを考えなかったわけではないが、それもやはり迷って、決められずにやって来たのだ。
しきりに鳴き続けるカモメの群れを追うかのように、汽笛が桟橋に響いた。
二人はお互いを強く強く抱きしめ、激しく唇を重ねた。長いキスだった。
汽笛を鳴らしていた船の舳先(へさき)が船着き場に触れると、ソフィアは腕をそっと振りほどき、立ち去った。
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次回(5月25日)は、「罠」をお届けします。