日本人のこころ 49
渋沢栄一『論語と算盤』

(APTF『真の家庭』270号[20214月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

日本資本主義の父
 大河ドラマ「青天を衝け」の主人公は「日本資本主義の父」といわれる渋沢栄一です。明治6年に大蔵官僚から民間人になり、銀行をはじめ証券取引所、製紙会社、鉄道、電力など資本主義のインフラを整備し、500もの会社を設立しました。さらに、実業家を養成する学校や貧困救済の施設を作るなど公共事業に取り組み、晩年には悪化する日米関係の改善に最後の力を尽くしています。渋沢の影響を受けた人は経済界にとどまらず、近代の国づくりを始めた明治時代に、日本人の心を育てた代表者の一人です。

▲渋沢栄一(ウィキペディアより)

 晩年、渋沢は人生を振り返って、「はじめは卵だったカイコが、あたかも脱皮と活動休止期を四度も繰り返し、繭になって蛾になり、再び卵を産み落とすような有様で、245年間に4回ばかり変化しています」と語っています。具体的には、尊皇攘夷の志士、一橋家の家来、幕臣としてフランスへ、明治政府の官僚、実業家と五つのステージです。文豪幸田露伴が「時代の児」と評したように、それぞれの時流に乗って自分を変化・発展させた人でした。

 渋沢は1840年、今の埼玉県深谷市血洗島の豪農の家に生まれました。地名の由来は、利根川の氾濫で地が荒れたこととされ、島は氾濫でできた自然堤防のことです。そんな土地なので米は作れず、綿や藍、養蚕が盛んでした。

 栄一の父市郎右衛門は本家の三男から分家に婿入りし、家を立て直した人で、栄一は7歳の時から従兄の尾高惇忠(あつただ)に四書五経や「日本外史」を、14歳から父に商売を習います。藍の見分け方も父から習った栄一は、良質の藍玉を作らせるため、番付を作って農家の品評会を開き、一番の人を上座に座らせて競争心を刺激しています。一人ひとりの能力を発揮させるやり方を身に付けていったのです。

 17歳の栄一が父の名代として代官屋敷に行くと、代官に渋沢宗家は千両、栄一の家は五百両持ってくるよう命じられ、怒った栄一は断りますが、後で父にたしなめられます。しかし、金をもらう方が威張っているような世の中は間違っていると思った栄一は、討幕を志すようになります。

 やがて栄一は、水運で通じている水戸から伝わってきた尊王攘夷運動にかぶれ、同志を糾合して外国人を皆殺しにし、幕府を窮地に追い込もうとします。そのため高崎城を襲って武器を手に入れようとした前夜、京都の偵察から帰ってきた同志に、弾圧されるからやめるよう言われ、あきらめます。情熱だけでなく情報分析にも優れ、失敗すると分かると変更するだけの柔軟性も持ち合わせていたのです。

フランスの経済を学ぶ
 江戸で面識のあった一橋家の用人に同家の家来に採用された渋沢は、一橋慶喜のいる京都に行きます。その後、一橋家の財政を立て直したことで慶喜に見込まれて一橋家の渉外役になり、薩摩や長州の要人と折衝するようになります。当時、渋沢が構想していたのは、徳川家を廃絶して幕府をやめ、慶喜が雄藩連合の共和政体のトップに就くことです。そのため将軍にならないよう進言したのですが、将軍家茂が病死したため慶喜は15代将軍になってしまいます。

 外国好きだった慶喜は、幕府顧問でフランス公使のロッシュから1867年のパリ万博に参加を求められ、弟の昭武の派遣を決め、水戸藩の家臣だけでは心配なので、渋沢を付けました。旅の途中、渋沢はスエズ運河の巨大工事を担当しているのが国ではなくレセップス社だと聞き、驚きます。通訳から株式会社は国家をしのぐ金も集められると知り、フランスでその仕組みを勉強しようと考えたのです。

 フランスで渋沢の世話をしたのが銀行家のフロリヘラルトで、渋沢は彼を介してフランスの資本主義を学びます。また彼が軍人と対等に話すのを見て、日本もそんな国にしなければならないと考えます。当時のフランスは、クーデターで皇帝になったナポレオン3世が、私企業を競わせて計画的に鉄道網を整備するなど、経済が急速に発展していました。銀行が広く資金を集め、企業は労働者の賃金を上げて経営を成功させ、国を豊かにするという資本主義の仕組みを渋沢は目の当たりにしたのです。

 徳川崩壊の知らせを受け帰国した渋沢は、大隈重信の求めで大蔵省に出仕し、日本経済の基礎作りに取り組みます。度量衡の統一から統一貨幣の発行、税金の米から金への変更、そして武士の廃絶に伴う金禄公債の発行などで、その金禄公債を出資金に創設したのが八十八銀行などのナンバー銀行で、渋沢は銀行や株式会社の条例も作っています。

 民間に転じた明治6年に渋沢は日本初のベンチャーキャピタル・第一国立銀行を創設します。アメリカの銀行にならった非中央銀行系の紙幣発券銀行で、次いで株式市場整備のため証券取引所を創設。鉄道や海運会社に続いて損保と生保、紡績会社に製紙会社など次々と設立していきます。

 また『論語』を学び直した渋沢は、孔子が公正な利益に基づく商業を推奨しているのを発見し、それを資本主義の倫理とします。晩年の講演集『論語と算盤』はちくま新書の現代語訳がお勧めです。

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