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日本統一運動史 18
日本に真の御父母様を迎える準備時代②
真の御父様の机上の金閣寺

 『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』を再配信します。
 創立40周年の際に発刊されたこの書籍は、日本における文鮮明・韓鶴子総裁ご夫妻の貴重な歴史的足跡と、多岐にわたる統一運動の歴史をまとめた一冊です。
 今、改めて読んでおきたい、日本の統一運動の歴史を振り返る連載です。

歴史編纂委員会・編著

(光言社・刊『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』より)

第三章 日本に真の御父母様を迎える準備時代

2.  真の御父様の机上の金閣寺

 真の御父様は、ソウル青坡洞(チョンパドン)の前本部教会におられた時代に、御自分の机に韓国を象徴する『コブクソン(亀甲船)』(注1)の置物とともに、日本の象徴として『金閣寺』の置物を置かれ、いつも意識され祈られていました。
(注1)李朝宣祖の時、李舜臣将軍が戦いで使った亀形の鉄甲船。

▲青坡洞・前本部教会の真の御父様の机上に置かれた「コブクソン」(左)と「金閣寺」(右)

3.  崔奉春宣教師の証し

 「実際申し上げますと、私が来る前にも、一人か二人が日本に伝道に来たらしいのです。…どんなことでも、良いことであるならば、できないとか不可能であるということは絶対言うな、最大限努力すれば必ず成るという自信を持ってやるのです。…私が日本において成功した秘訣、…初期の人々、先輩たちが勝利した秘訣は何かというと、できるんだという確信をいつも持っていたことです。」(1976.1.15)

(2)釜山からの出航(1958.7.15〜17)
 1958年7月15日夜、崔奉春宣教師は密航船に乗り込み、17日に韓国の釜山を出航しました。

 「船が来た。食糧を買い込んで、(15日の)夜、遂に出航した。外の乗客との待ち合わせがあるので、16日、一旦停泊して、夜再び待ち合わせて、夜中1時頃出航した。ようやく、望みがかなって、日本に向けて出航である。」(『成約の鐘』1971年9月号)

(3)刑務所に収監(1958.7.21)
 7月17日午後9時、福岡県の小倉港に入港しましたが、上陸の許可が下りず、広島県の呉に向かいました。その後、7月21日の3時半ごろ、呉海上保安本部の警備艇に連行されたのです。

 「先日から海上保安部の取調べが始まった。…私がクリスチャンであるので、私の口から全てを割らせようと努力したが私は何も答えなかった。午後7時頃になって、密入国の疑いで正式に留置された。」
(『成約の鐘』1971年9月号)

 崔奉春宣教師が最初に収監されたのは、広島県の吉浦刑務所(呉拘置支所)でした。7月25日から10月14日までの81日間をこの刑務所で過ごしました。

 「私はこの拘置所にジャンバーとズボン一枚で入った。来るときはお金を持っていたが…私は一文なしだ。…手荷物、原理の本すべては船の者たちが盗み去った。神の子は着のみ着のままである。…神の子には何もない。ゼロの立場より再出発である。…手ぬぐいも破れた。歯ブラシもない。…

 たとえこの身は拘置されていても、心は自由に父と主の聖恩に感謝して、涙で祈り賛美した。愛されしこの身、天の忠臣となっていきます。天宙復帰のその日まで、私の心は微動だにしない。より強く、サタンよ我を動かしてみよ。打ってみよ。変わるものか。屈伏するものか。」(『成約の鐘』1971年9月号)

〔注釈〕崔奉春宣教師の日本宣教出発日および広島の刑務所に収監されるまでの期間について
 今まで統一教会の公式的見解として、崔奉春宣教師が日本宣教のため韓国の釜山を出発した日については1958年6月15日、警備艇に連行されたのが6月21日、広島県の吉浦刑務所に最初に収監されたのが6月25日と報じられてきました。しかしこの度、『日本統一運動史』編纂作業の中で、崔奉春宣教師の最も古い日記、および来日当時についての証言のビデオを入手し、検討した結果、この期間の出来事は従来の見解である6月ではなく、1か月後の7月であったと見るのが妥当であるという結論に至りました。よってここに従来の月日から、新しい月日に修正することにしました。

 この間、9月4日に初公判、同月18日に第二回公判、続いて10月9日に、懲役6月の実刑判決が言い渡されました。

 「長年伸ばしてきた頭髪を刈る。鏡の前で自分の髪の毛がバリカンによって刈られていくとき、外見が囚人らしくなり、わたしの髪を刈っている青い服の囚人が今までは他人のように見えていたが、今は本当に我も君も同じで、頭まで丸坊主になると本当に囚人らしく思え、このとき、隠すことのできない淋しさがこみ上げてきた」(『成約の鐘』1971年9月号)

 10月14日、呉の刑務所から広島の吉島刑務所(広島刑務所、現在も広島平和記念公園の近くにある)に移送され、さらに11月14日、吉島刑務所から山口刑務所に移り、ここで約100日間過ごしました。

(4)療養所からの脱走(1959.4)
 1959年2月17日、130日間の刑期は満ち、翌日(2月18日)釈放され、韓国に送還されるために山口県の下関刑務所に移送されました。

 「私の頭の内には逃げることしか考えない。このまま下関に行ってしまえば韓国に送還され、目的が全うされないのである。逃げたい。使命を思えば逃げなければ。しかし、私には金がない。…私の心は苦しい。ああ、自由になり、東京に行きたい。…走る汽車から飛び降りたい。死が問題ではない。要は使命完遂だ。やはり金のない今の私には成功率は少ない。涙を呑んであきらめる。」(『成約の鐘』1971年11月号)

 崔奉春宣教師はこのままでは送還されてしまうことを案じ、断食して病気になることを決意しました。病気になり入院すれば、脱走することが可能となるからです。

 「最後の手段として断食して病気になり、仮放免をしてもらう他に方法のない事を決心して、今朝より始める事にして、露骨な程度はかえって不成功になりやすいので、慎重にする事にした。病気だといって朝食を減食した。…私は心臓と胸が悪いといって診察を受けた。」(『成約の鐘』1971年12月号)

 「朝から医者の診察を頼んだ。…私を心臓病と診断したので、私はもう安心した。私はうれし涙が出る。しかし、私の気持ちの分からない彼らは、私が病気なので心配して泣いているように思っている。私は…一日も早く自由の身になって父上の前に、主様の前に、兄弟の前に使命を全うしたい」(『成約の鐘』1971年12月号)

 3月7日、入院。
 「両肺が侵されているというので六か月の療養を言われた。」(『成約の鐘』1971年12月号)

 3月16日、光風園療養所に移される。

 「私はこの期間に原理の日本語訳を思い決し、早速始めた。…お金があったら一日でも早く飛んで上京したい」(『成約の鐘』1971年12月号)

 4月10日の皇太子殿下の結婚日を脱走する日に決めましたが、送金が遅れたため、療養所を出発し、東京行の急行に乗ったのが、4月中旬以後のある土曜日でした。

 「しばらくして汽車が来た。喜び勇んで乗った。汽車は動き出した。…お父さん、お父さん、成功。ああ、夢にも忘れず願ったこの日がかなったのである。…夢のようだ。現実だ。お父さん、『勝利』以外に何の言葉も出ない。しかし、未だ闘いはこれからである。汽車は走り出す。今日この時までの過去を思い出すと共に先の日本伝道の計画を練る。明朝を過ぎて昼頃は東京である。しかし、東京に行って誰の所という当てもなければ何もない。ただ、運を天に任せて行く」(『成約の鐘』1971年12月号)

▲崔奉春宣教師が刑務所でトイレット・ペーパーに綴った日記

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 次回(2月5日)は、「日本に真の御父母様を迎える準備時代③」をお届けします。


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