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日本統一運動史 17
日本に真の御父母様を迎える準備時代①
日本宣教の開始

 『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』を再配信します。
 創立40周年の際に発刊されたこの書籍は、日本における文鮮明・韓鶴子総裁ご夫妻の貴重な歴史的足跡と、多岐にわたる統一運動の歴史をまとめた一冊です。
 今、改めて読んでおきたい、日本の統一運動の歴史を振り返る連載です。

歴史編纂委員会・編著

(光言社・刊『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』より)

第三章 日本に真の御父母様を迎える準備時代

 この期間は、神の御旨成就の摂理の中で、日本が世界の母、すなわちエバ国家として使命を果たしていくための人的基盤を復帰する蘇生的開拓期間でした。そのために日本と韓国との間にはまだ国交関係は結ばれていませんでしたが、世界が一刻を争う国際情勢の中にあったため、密入国という手段によってでも、早く日本に宣教を開始しなければなりませんでした。そして1965年1月28日に真の御父様がご来日されましたが、それまでの期間は、宣教師がアベルとなり、日本で復帰された教会員がカインとなって、メシヤとしての真の御父様を迎える基台を造成し、人類の真の父母を迎える準備の期間となりました。

一、 日本宣教の開始

(1)崔奉春宣教師の派遣

 日本に宣教師を派遣することは何度か試みられました。しかし最終的に日本に基盤を造ったのは、崔奉春(チェボンチュン/日本名、西川勝)宣教師です。西川勝と名乗ったのは、日本に来て1959年2月18日、山口刑務所から釈放されたときでした。

▲真の御父様と崔奉春宣教師(1958.5.30)

 崔奉春宣教師は、韓国の釜山で生まれ、2歳から大学まで日本の大阪の難波で過ごしました。韓国に帰国したのは、終戦の直前です。そして仁川の氷を造る会社の常務をしていたときに伝道され、統一教会に入教したのが1956年4月10日でした。その後の1958年5月27日、崔奉春宣教師(当時、33歳)は釜山の教会の二階で、真の御父様に日本宣教へ行くことの決意を述べ、その3日後(5月30日)、韓国、忠清南道(チュンチョンナムド)の鶏龍山(ケリョンサン)にある甲寺の裏山で、真の御父様に挨拶をして日本に出発することとなりました。

1.  御 言

①「日本という国はエバの国である。本当はイギリスがこういうような祝福されるような立場に立ったのだけれど、キリスト教文化圏が反対したから、日本という国がとんでもない祝福を受けるようになった。とんでもない祝福を受けたのである。

 世界が憧れるようなこういう歴史的発展をなしたというのは、日本人が努力したからそうなったと思う? 韓国動乱が起こらなかったら、日本はとんでもないことになっていた。アメリカがこっちに来ることはない。日本は問題外の国になっていただろう。韓国を中心として因縁を結ぶことによって、日本の経済復帰の基点となった。男の国が祝福されるべきところを、結局、男のところは今まで使命を果たされないので、仕方なしに女の方を祝福してやった。男を祝福しなくても女を祝福したら、結婚してしまったら男に帰るのだから、神は損しないから日本を祝福する。神はマイナスになることはしない。だから、アジアにおいて韓国が時を得たのは4300年以来初めてである。世界の舞台において独立国家として生まれて来るのです。数千年の運勢圏を初めて苦難の蕩減の結果、結ばれる横的祝福の道を神様が求めてきた。それをそのまま、みんな韓国にとどめてしまうわけにはいかない。そういうのを先生は知ったのだから先生に至る相対圏を中心として西川さんを送った。

 摂理がそういうふうになってキリスト教文化圏が反対した場合、イギリスとアメリカは飛んでしまうのだから、先生が怨讐圏に行って、再びそれを基台を作って帰って来なければ摂理を満たすことができないのだから、その道を行く以上は国家的相対圏として日本をつがなければならない。だから日本に西川さん行け! 三回。三回目に、追われて大村収容所に収容された。それでいよいよ偽りの病気をして、そしてその場を逃げ出した。それが統一教会の出発である。…それを日本が反対するのは当然だ。それが統一教会の土台である。それは韓国の法にも違反するし、日本の法にも違反する。先生は韓国の法にひっかかり、西川さんは日本の法にひっかかっている者である。そういうことがもし見つかったなら、牢屋に引き込まれることは覚悟している。そういうような地下運動の時代を経て、我々は太陽のもとに自信をもって出られるという時代をなしたのが今までの歩みである。だから日本が恵まれる。」(1972.4.29)

②「日本と先生を一対一とすればこれは敵である。帝政時代には数多くの拷問を受けた。しかし神は敵を討てとは命令しない。敵が裸になれば、敵が飢えたならば、そのために日本に先生は西川先生を送って来た。日本全国が反対するのを知っていたし、韓国自体が反対した。しかし数十年後には韓国のためになるし、日本のためになる。両国民が手を合わせて感謝する日があるに違いないことを知っていたから、どうしても日本に来させた。法的においては許されない条件になっていたし、韓国においてはそのとき先生は牢屋に引き込まれて弾圧の最絶頂に立っていた。一人の働き者が貴重なその時に、日本へよこすには涙ぐましい誰にも知れない苦悩が背後にあったことを忘れてはならない。死を覚悟して成したこの基準は日本歴史上において取り消すことはできない。今になって韓国は先生に対して感謝している。天照大神が日本を愛する前に神は日本を愛した。そういうことを考えたとき、先生は日本の歴史上誰よりも日本を愛した。韓国人ではないかと言うかもしれない。平面的基準はそうかもしれないが、しかし内的基準においては、日本人以上に日本を愛したのである。神様が愛する日本であったならば、日本人以上の心情で日本を愛さねばならない。」(1969.4.27)

③「そういうような心情基台を持っておるから、日本に西川さんをよこす時には、先生が西大門の牢獄から出た直ぐ後だよ。金もない、何百万円の借金をしてかかえてよこした。それで国の保証がない。自分の国が迎えるはずはない。だから地下活動をしなければならない。

 それで密航船に乗らせて、先生が埠頭まで見送ったのが、つい昨日みたいな思いがする。それで一回ひっかかって帰ってきた。二回ひっかかって帰ってきた。三回ひっかかって帰ってきた。『もうできません』『このやろう、男同士で誓っていた、その神は今まで最初の一日を迎えて日本の地において神に生命をかかえ得るような一人の男、一人の女を願っていたにもかかわらず、意に添うようになり得なかった。それを押しのけて三回目に積み込ませて送ってやったその後には、結局収容所に入れられてしまった。それは日本の法律に違反することは知っておる。先生も知っておる。しかし、我々なくしては日本の将来、アジアの将来は遠からず悲惨な運命にひっかかる。だからそれを知った男としては、天のおきてによって、それがもし果たさなければ人間世界の国家的法にひっかかるのではなくして天法にひっかかる。これを知っておるのだから、この地上ですべて秘密の立場において行動を成し得なかったのが、西川さんを日本によこしたことである。それで留置の期間を経て、それから飛び出して追いに追いかけられながら逃げ歩む道までも止めて統一教会の足場をつくったのが、今の現状の日本の教会である。」(1972.5.6)

④「このような原則のもとに、私は私の国家だけのために心配するわけにはいきません。最も不遇な、そして最もはなはだしい迫害を受けている中にあっても、私の祈りと関心は、韓国のためではありませんでした。私は日本と米国に宣教師を送るために、最善を尽くしました。例を挙げれば、日本に宣教師を送った当時には、韓国と日本の間の国交関係が正常化されていない時でした。ゆえに宣教師は正常な手続きがとれず、小さい船で日本に渡ったのであります。この米国に宣教師を送った時にも、私たちにいかに困難があったか、皆さんには想像できないと思います。」(1965.2.13)

⑤「先生は監獄を出たり入ったりしながら、そのとき150万圜(ファン)を借金して、崔奉春を日本に送った。なぜなら、怨讐国家の日本を誰よりも愛したという条件を立てなければならないということを知っていたからである」(1970.7.26)

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 次回(1月29日)は、「日本に真の御父母様を迎える準備時代②」をお届けします。


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