2021.01.21 17:00
歴史と世界の中の日本人
第26回 伊東マンショ
西洋との懸け橋となった日本少年
もう一度皆さまにぜひ読んでいただきたい、編集部イチオシ!なコンテンツをご紹介。
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今から400年以上も前の話。宮崎県に生まれた一人の少年がヨーロッパを訪ね、ローマ教皇や国王たちに謁見している。天正遣欧少年使節の一人、伊東マンショ(1569頃~1612)である。
日本は戦国時代、ヨーロッパは大航海時代であり、スペイン・ポルトガルが七つの海を支配した時代である。
1543年に種子島に鉄砲が伝えられ、1544年には薩摩(鹿児島県)にポルトガル船が来航、1549年にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、日本にキリスト教が伝来した。
正に日本が初めて国際社会の荒波にのみ込まれていった時代である。
伊東マンショは、身分の高い武士の子であったが、豊後国の中心地「府内」を訪ねる機会があり、そこで宣教師ペドロ・ラモンと出会い、キリスト教の信仰を持つようになった。
府内はキリシタン大名、大友宗麟(そうりん)がつくり上げた“理想の町”であった。
マンショはヴァリニャーノ神父が建てた有馬のセミナリヨ(中等神学校)で当時世界最高峰の教育を受けることになる。
1581年、十代になったばかりのマンショにヴァリニャーノ神父から大きなミッションが与えられた。
大名を代理する立場で使節団の一人としてヨーロッパを訪問することだった。
マンショたちが長崎を出航したのは翌1582年2月20日。使節団に選ばれた日本人はマンショを含むいずれも13、14歳の4人の少年であった。
ヴァリニャーノ神父を引率責任者とする一行9人はポルトガル商船に乗り込み、東シナ海を横断し、マカオを目指した。航海が困難を極めたことは想像に難くない。
マカオでは季節風が吹き始めるのを10カ月待ち、その間、ラテン語やローマ字を学習し、西洋楽器演奏に励んだ。
マカオからインドのゴアを経て、1584年8月10日、ポルトガルの首都リスボンに到着。
約900日もの長旅だった。幾多の困難、試練を乗り越えた少年たちは15、16歳になっていた。
マンショたちはヨーロッパの人々に大歓迎を受けた。
彼らは日本の伝統と文化を堂々と伝え、一方でヨーロッパの文化、地図や航海図、地球儀、測量機械、時計、西洋楽器などを日本に持ち帰った。
中世のグローバル時代をたくましくもしなやかに生きた少年マンショたちの姿は、現代の日本青年たちに多くのことを教えてくれている。
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次回(1月28日)は、「日本とトルコをつないだ日本青年」をお届けします。