2021.01.28 17:00
歴史と世界の中の日本人
第27回 山田寅次郎
日本とトルコをつないだ日本青年
もう一度皆さまにぜひ読んでいただきたい、編集部イチオシ!なコンテンツをご紹介。
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トルコが親日的であることはよく知られている。因果律に従えば、トルコが親日である理由も必ず存在するのである。
時は明治の頃、1890年9月16日、650人を乗せたトルコの軍艦エルトゥールル号が訪日を終えて帰国する途中、紀伊半島南端近くの大島の沖合で暴風雨の影響を受け岩礁に激突、587人もの乗組員が死亡した。
大島村民は生存者の救出活動に全力を尽くし、負傷したトルコ兵たちを献身的に介抱した。
貧しい食糧事情にあっても非常時の蓄えまでも彼らのために惜しみなく提供した。村を挙げての無償の行為であった。
エルトゥールル号の遭難事故は連日新聞で報道された。
当時24歳の青年、山田寅次郎(1866~1957)はこの事故に衝撃を受け、犠牲となったトルコ人遺族への義援金集めの活動を開始する。
新聞社に働き掛け、各地に出掛けて演説し、人々に支援を呼び掛けた。
一年後には5千円の義援金が集まったという。現在のお金でおよそ3千万円である。
山田寅次郎は現在の群馬県沼田市の出身で、明治維新後に上京し、漢学、英語、独語、仏語など、外国語の習得に励んだ。
日本という枠にとらわれず、国際社会で自分の生きる道を見いだしたいと考えていたからであった。
寅次郎は時の外相の勧めによって、結果的に自ら義援金をトルコの遺族に届けることとなった。
1892年1月、寅次郎、26歳の時であった。
その後の寅次郎は、義援金を届けるだけでなく、トルコ皇帝の要請によって、トルコと日本の修好と通商の実現のために陸海軍の士官への日本語教師としてトルコに長く滞在し、両国の交流の深化に尽力するようになる。
エルトゥールル号遭難時の大島村民の救護活動、山田寅次郎の約20年に及ぶ現地での歩みがトルコの人々に「尊敬すべき日本人」像を印象付けたことは間違いない。
寅次郎は民間大使として活躍し、日本とトルコの正式な国交に至る懸け橋となった。
山田寅次郎は、トルコで最も有名な日本人となった。
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次回(2月4日)は、「世界に誇る発明を成し遂げた日本人」をお届けします。