歴史と世界の中の日本人
25回 森川清治郎
神として祀られた日本人

(YFWP『NEW YOUTH』181号[2015年7月号]より)

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 台湾南部の嘉義県東石郷副瀬村の富安宮に、日本人が「義愛公」という神として祀(まつ)られている。

 その日本人とは森川清治郎(18611902)である。

 森川は1897年に巡査となって台湾各地で勤務することになり、副瀬村には1900年に赴任した。
 副瀬村は痩せた土地、浅瀬の海という厳しい環境にあった。

 当時の台湾はマラリア、コレラ、ペストなどの伝染病が猛威を振るい、治安の悪さにも悩まされていた。副瀬村も例外ではなかった。

 森川巡査は滅私奉公の精神で次々と課題を解決していった。

 私塾を開き、自費で教師を雇い、時には自らも教鞭(きょうべん)を執った。
 家の周りに排水溝を掘らせ、汚水を流させた。
 飲食物の扱い方などについても丁寧に細かく教えた。
 農地の改良や農耕技術の改善も、自ら鍬(くわ)を持って率先垂範で指導した。

 1901年、台湾南部に大干ばつが発生。
 にもかかわらず、総督府は新たに漁業税を課した。

 村人の嘆願を受けた森川巡査は支庁に対して必死に村の実情を訴えた。ところが、当時の支庁長は激怒し、森川巡査が村人を扇動しているものと曲解して逆に戒告処分に処してしまったのである。

 2日後の朝、「疑われては弁解の術(すべ)もない。覚悟する」と遺して森川巡査は自決。
 慈父とも慕う森川巡査の悲報を聞き、村人たちは遺体にしがみついて嗚咽(おえつ)したという。

 総督府は大騒動になり、森川巡査の戒告は取り消され、台南州知事は警察官の鑑(かがみ)として森川巡査を表彰。
 税金についても従来と同様の税額で落ち着くことになった。

 1923年25日、副瀬村の隣村で脳炎が発生した。

 2月7日夜、副瀬村のある村人の夢枕に警官の制服に身をまとい制帽をかぶった森川巡査が現れ、「環境衛生に心掛け、飲食に注意し、生水、生ものを口にせぬこと」と告げた。
 この村人はすぐに全村にこのことを伝え、副瀬村は脳炎の被害から免れた。

 村人たちは、自分たちの親や祖父母に献身的に尽くしてくれた森川巡査が、死後も自分たちを守ってくれていることに心から感謝した。

 このようなことがあって森川巡査のご神体が祀られるようになったのである。

 死後100年以上たった今でも、副瀬村では代々「義愛公」の遺徳が語り継がれており、富安宮に行けば、まるで本人に会ったことがあるかのように遺徳を語ってくれる人で溢れているという。

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 次回(1月21日)は、「西洋との懸け橋となった日本少年」をお届けします。