日本人のこころ 34
島根県・茨城県─『風土記』

(APTF『真の家庭』255号[2020年1月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

『出雲国風土記』
 『風土記』は奈良時代初期の713年、元明天皇の詔により各国の国庁が編纂したもので、郡郷の名や地名の起源、産物、土地の肥沃状態、伝承などが記されています。原本は残っておらず、写本があるのは五つで、『出雲国風土記』はほぼ完全ですが、『播磨国風土記』『肥前国風土記』『常陸国(ひたちのくに)風土記』『豊後国(ぶんごのくに)風土記』は一部が欠損し、他の国のものは後世の書物に引用された部分だけが残っています。

 701年の大宝律令によって日本の律令制度が確立し、712年には太安万侶(おおのやすまろ)が編纂した『古事記』が献上されました。そうした律令制による国造りの一環として『風土記』は編纂されたもので、それ以前の古い伝承などが集められています。記述に基づいて徴税されることが予想されるので、正直には載せられない部分もあったかもしれません。全国をほぼ統一した大和朝廷が、各国の事情を調査し、地方統治の指針としたもので、朝廷に恭順の意を示した各地方勢力の地勢調査と言えます。

 読んですぐ気付くのは『出雲国風土記』の詳細さで、地理関係が細かくて客観的な情報が多く、伝承は少ない今の国勢調査のような記述です。そうなったのは、出雲国(島根県)の独自の信仰や統治に対して大和朝廷が配慮したからでしょう。反乱などが起きた時に対応するため、地理的な要件を優先させたとも考えられます。

 庶民が旅行するようになった江戸時代には『出雲国風土記』がブームになり、幕末に出雲の廻船商人が『風土記』に出てくる神社を参拝して回り、その日記を残しています。それを読むと、『風土記』に出てくる神社の大半が残っているのに感心します。

 出雲大社の宮司は今も国造(こくぞう)と呼ばれ、出雲氏族の長である千家、北島両家が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継ぎ、いわば祭政一致の統治を行っていました。奈良・平安時代の出雲国造は、代替わりごとに朝廷に参向し、「出雲国造神賀詞」を奏上するなど特別な扱いを受けています。

 古代は祭祀王である天皇が統治も行っていたので、出雲は古い日本のかたちをそのまま残していたのでしょう。その後、大和朝廷では広い国土を統治する上で、祭祀と統治を分離したほうが効率的だとなったのです。

 登場する天皇は、景行(けいこう)天皇、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、神功(じんぐう)皇后など、主に中国の史書にある倭の五王の時代(413502年)の人物です。大規模な古墳が造られた時代で、対外的には朝鮮半島の南部に任那(みまな)日本府をつくり、神功皇后が朝鮮半島に出兵していました。

 中国は国内の対立や遊牧民との争いに神経を使い、日本からはむしろ軍事的な支援を得たいと考えていたようです。任那日本府など朝鮮半島に対する倭の進出は雄略天皇の時代から低下し、任那は百済と新羅によって領土を奪われ、562年に新羅により滅ぼされます。それでも、朝鮮に渡った日本軍がかなり強かったことが、中国や朝鮮の史書に残されています。

 663年の白村江(はくそんこう)の戦いは日本の大敗とされますが、戦後は唐も新羅も日本に軍事協力を求める使節を派遣していて、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が心配したように、唐の大軍が日本に侵攻してくることはありませんでした。日本の被害は遠征軍だけで、本国の被害はなく、衛星都市を失ったようなものです。

 日本が任那に拠点を置いたのは、朝鮮でしか製造できなかった鉄を輸入するためで、国内で鉄が造れるようになると、無理して維持する必要はなくなります。滅亡した百済から大量の難民が日本に渡来し、彼らの知識や技術が日本の国づくりに生かされます。

▲出雲国風土記

『常陸国風土記』
 当時の大和朝廷の支配が及んでいた地域が『風土記』に書かれたところですが、北の常陸国(茨城県、福島県の一部)や南の大隅国(鹿児島県)にはまだ従わない民たちがいました。

 『常陸国風土記』の行方郡の条では、崇神天皇の御代に、古事記で神武天皇の皇子とされる建借間命(たけかしまのみこと)が遣わされ、戦をした記述があります。痛く殺したと言った所が安伐(やすきり)の里、吉殺(よさ)くと言った所が吉前(えさき)の邑というなど、征伐の話にまつわる地名の由来が記されています。

 一方、高さでは富士山にかなわないが、風光明媚で人々に親しまれている点では筑波山が上だというお国自慢や、平野から海や霞ヶ浦など風土の豊かさや産物の多さなど、常陸の良さも書かれています。

 大和から各地に国司が派遣されていますが、各地では部族の支配を認め、緩やかな中央集権が行われていたのでしょう。天皇たちの苦労も語られ、武力によって征伐しただけではないことも分かります。地方の産物などの調査は徴税にもつながるので、地方を立てながら統治するという両面の意図がうかがえます。

 『豊後国風土記』には尼寺のあることが書かれています。聖武天皇・光明皇后により国分尼寺ができる前のことで、仏教の普及では九州の方が進んでいたからでしょう。朝鮮半島から仏教を信仰する人たちが渡来し、最初に定着したのが九州だからです。

 朝廷が公認した仏教は鎮護国家の呪法(じゅほう)や学問としての宗教であり、僧は役人と同じ公務員でした。しかし、仏教が目指した成仏のため修行する僧もいて、個人的に出家した私度僧が現れます。とりわけ、日本に渡来した大乗仏教は人々の救いを目指したので、現世利益を求める人たちの願いに応えようとする僧たちが地方にもいたのです。

 蘇我馬子が豊浦(とゆら)寺を開くに際し、百済からの渡来人である仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)の祖父・司馬達(だっと)等が、馬子に乞われて自分の娘・嶋女(しまじょ)〔善信尼(ぜんしんに)〕を弟子2人と共に出家させていて、彼女らがわが国初の尼僧となります。

 地方創生がテーマの今、地域おこしの観点から『風土記』を読むと、ヒントになることがあるかもしれません。