2020.09.24 17:00
歴史と世界の中の日本人
第9回 新島 襄
“天の父”と共に歩んだ歴史の開拓者
もう一度皆さまにぜひ読んでいただきたい、編集部イチオシ!なコンテンツをご紹介。
「歴史と世界の中の日本人」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
「新島襄」といえば、今なら、NHKの大河ドラマ「八重の桜」を思い出す読者も多いことだろう。
主人公の八重の夫が日本にクリスチャン・カレッジ、同志社英学校(後の同志社大学)を設立した新島襄(1843~1890)である。
新島は上州安中藩の下級武士の子として江戸屋敷のある神田一ツ橋で生まれた。
彼は10歳の時から漢学を学び、13歳になると闘学を学んだ。
彼は封建社会の作法に強い反発を感じていた。
そんな時、新島の意識を海外に向けさせる出来事が起きる。
1860年10月、江戸湾の沖合に停泊していたオランダ軍艦を目撃したのである。
彼は衝撃を受け、日本の将来と自分の進む道を真剣に考えるようになる。
翌11月、新島は航海術を学ぶために幕府の軍艦操練所に通うようになり、数学を学び、外国船や海外に関する知識を貧欲に身に付けていった。
この頃の新島襄は漢訳された外国の書物を熱心に読んでいた。特に『ロビンソン漂流記』『アメリカ合衆国歴史地理』、そして『聖書』を読んだ。
外国の書物は新島の欧米文化への憧れを募らせ、彼の冒険心、チャレンジ精神、宗教心を育んだ。
新島は後に密航し、幾多の困難を克服して米国にたどり着く。
新島は、世界に目を向け、海外に飛び出した動機をこう記している。
「地上の両親よりも、天の父に仕えよう。この新しい考えが私を勇気づけて、君主を見捨てて、家と国のもとを去ることになったのです」
“天の父”によって新島襄は米国に導き出され、キリスト教と出会う。
新島の行く道は無人島のロビンソン・クルーソーのように神に祈らざるを得ない連続であった。
新島の信仰と志の強さは、このような歩みの中で鍛えられていったのである。
新島は米国での体験を通して自らの使命を悟り、日本に帰国するようになる。
1879年6月、同志社英学校の第一回卒業式で新島襄は卒業生に英語でこう訴えた。
「行け、行け、平和のうちに行け! 強くあれ! 不思議なる御手は諸君を導き給うであろう」
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次回(10月1日)は、「人道博愛の精神で生きた日本人外交官」をお届けします。