歴史と世界の中の日本人
第8回 北里柴三郎
開国日本から世界に羽ばたいた医学者

(YFWP『NEW YOUTH』160号[2013年10月号]より)

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 北里柴三郎(18531931)は日本が誇る世界的な医学者・細菌学者であり、「日本近代医学の父」と呼ばれた。
 彼が設立した北里研究所からは多くの世界的な研究者が輩出されている。

▲北里柴三郎(ウィキペディアより)

 1889年、北里柴三郎は留学先のドイツで破傷風菌の純粋培養に成功した。
 当時の細菌学の権威たちが挑戦してことごとく失敗に終わっていた破傷風菌の純粋培養に、医学後進国の一留学生が成功したのである。
 翌年には世界で初めてジフテリアの血清療法を発見し、北里は第一回ノーベル生理学・医学賞最終候補者にノミネートされている。

 北里柴三郎の業績は自身の研究成果にとどまらない。1897年、志賀潔は弱冠26歳で赤痢菌を発見して世界を驚かせたが、事実は、北里柴三郎との共同研究であり、むしろ志賀は研究助手の立場であった。

 論文の発表に当たって北里は前書きだけを書き、志賀の名前で論文を書くようにし、その業績を弟子のものとしたのだ。
 米国のフレキシナー博士が赤痢の調査研究のために来日した際には、野口英世を通訳として抜てきした。それが縁で英世は24歳で渡米することになる。北里柴三郎は野口英世の世界への道を切り開いたのである。

 世界に名を成した北里柴三郎であったが、留学からの帰国後は苦節の時を過ごした。
 その間、彼を支えたのは慶義塾大学の創始者・福澤諭吉であった。
 諭吉は私財を投じて研究所を建て、北里の研究の場を無償で提供した。

 その後、北里は1917年に慶大学に医学部を創設、十年余りもの間、諭吉への恩を返すべく、慶大学で医学教育の発展に尽くした。

 江戸時代末期から明治、大正、昭和の時代を生き抜いた希代の偉人、北里柴三郎。彼は自らの人生の志を立てるに至った背景についてこう語っている。
 「日本は開国して日も浅く、何一つ欧米諸国に肩を並べられるものがない。世界的に評価される学者も出ていない。だから、私が世界的な学者になるのだ」

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 次回(9月24日)は、「“天の父”と共に歩んだ歴史の開拓者」をお届けします。