2020.09.13 17:00
日本人のこころ 16
宮崎~地上に降りたアマテラスの子孫
ジャーナリスト 高嶋 久
天孫降臨の地は?
古事記神話はいよいよ天孫降臨に入ります。皇室の祖神であるアマテラスが、子孫を地上に降ろす物語で、天皇家による日本支配の根拠となったものです。もっとも、古事記が成立した712年当時、大和朝廷の支配が及んでいたのは畿内を中心に東は関東までです。
古代史において、天孫降臨は朝鮮半島から日本列島への稲作の伝播と広がりに伴う大和王権の成立というのが、ほぼ定説です。これについて分かりやすく書かれているのは上垣外憲一・大妻女子大学教授の『倭人と韓人』(講談社学術文庫)で、元は『天孫降臨の道』(福武書店)です。ソウル大学に留学した上垣外教授は、韓国に現存する最古の歴史書『三国史記』と古事記や日本書紀を比較し、古代史の成果を踏まえて同書を著しました。
古事記はもともと「ふることふみ」と呼ばれたように、各地の伝承を集め、それを天皇家の物語としてまとめたものです。当時から伝説のように語られていた話もありますが、まだ人々の記憶に残っている話は、歴史書としての信頼性から、あまり変えることはできなかったはずです。ですから、歴史的事実と創作を見分けながら読むことが大切になります。
大まかに言えば、朝鮮半島から北九州に渡来した稲作集団が、九州北部で王権を形成し、それが畿内に進出して大和王権を成立させた、となります。その過程で、既に在住している部族たちと争ったり、征服して婚姻関係を結んだりしたはずです。
渡来集団が九州に定着し、王権を形成していく歴史が分かりやすいのは、梅原猛氏の『天皇家の”ふるさと”日向をゆく』(新潮文庫)です。歴史学者ではなく哲学者ですが、それゆえに自由に発想を広げ、古事記神話を読み解いています。
宮崎県には、天孫降臨の場所が二つあります。北部の高千穂峰と南部の霧島連峰です。どちらも、それを観光の目玉にしていますので、現地に行って「どちらですか」と聞くと、「どちらとも言えない」との返事でした。
梅原氏は高千穂峰を推しています。その南に、西都原(さいとばる)古墳群という3世紀から7世紀にかけての広大な古墳群があるからです。ここで成立した王権が鹿児島まで支配し、そこから畿内を目指したという説です。
いずれも高い峰に降臨しているのは、古代からの山岳信仰に関係しています。神は高く清らかな山に降りてくるからです。実際には、麓に定着した人たちが、その山を神として仰いでいたのでしょう。
アマテラスの孫が
ある日、アマテラスは子のアメノオシホミミを呼んで言いました。「ようやく葦原の中つ国を治める時がきたので、あなたがそこに降りて国を治めなさい」と。
するとアメノオシホミミは、「私がその支度をしている間にニニギノミコトが生まれましたので、代わりにこの子を降ろすのがいいと思います」と答えたのです。そこでアマテラスは改めて孫のニニギノミコトに、「この雲の下には稲穂が豊かに実る美しい国があるので、そこへ降りて、しっかり治めなさい」と告げました。
ニニギノミコトが準備を始めたところ、ある神がやってきて、「道の途中に怪しい神が待ち構えています」と報告したのです。それを聞いたアマテラスは、いろいろな神をつかわして正体を確かめようとしたのですが、どの神も恐がって逃げ帰ってきました。
そこで、アマテラスはアメノウズメを呼び、「おまえは女神だが勇気があるから、怪しい神の正体を確かめてきなさい」と命じました。アメノウズメはその神のところへ行き、「ニニギノミコトが通る道に立ちはだかるあなたは、いったい何者か」と聞いたのです。
すると、その神は「私は国つ神のサルタヒコで、ニニギノミコトが天から降りて来られると聞いたので、案内しようと思い、ここでお待ちしていました」と答えたのです。これを聞いてアマテラスはひと安心します。
やがてニニギノミコトは、アメノウズメ、アメノコヤネ、フトダマ、イシコリドメ、タマノオヤの5人の神を従え、サルタヒコの案内で、葦原の中つ国に降りて行きました。
その途中、高天原と地上との間に架かる「天の浮橋」に立ち寄ると、そこから地上界を見下ろし、降り立つ場所を確かめました。そして、高い峰を目指し降りて行ったのです。
ニニギノミコトは「ここは朝日が海から真っ直ぐに差し、夕日もひときわ輝いて、とても素晴らしいところだ」と言うと、そこに立派な宮殿を建てて住みました。
こうした神話が伝わる高千穂には、それにちなむ高千穂神社をはじめ多くの名所があり、地域は古くからの神楽が今も伝わっています。毎年11月中旬から2月上旬にかけて、高千穂町内のおよそ20の集落で、それぞれ氏神を民家などに迎えて、30演目以上もある「高千穂夜神楽」が夜から朝まで奉納されています。観光客向けには、高千穂神社で夜8時から1時間、代表的な神楽が上演されます。