日本人のこころ 15
京都~『出家とその弟子』倉田百三

(APTF『真の家庭』236号[6月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

ロマン・ロランも絶賛
 倉田百三が大正7年に岩波書店から出した戯曲『出家とその弟子』は、赤裸々な愛と罪の告白が当時の青年たちの共感を呼んでベストセラーとなり、各国語に翻訳されました。フランス語版にはロマン・ロランが「現代のアジアにあって、宗教芸術作品のうちでもこれ以上に純粋なものを私は知らない」という序文を寄せ絶賛しています。

 浄土真宗の開祖親鸞と父にそむく息子の善鸞、父子の和解をはかろうとしながら遊女と恋に落ちる弟子の唯円(ゆいえん)の物語で、人間の愛と罪、救いとは何かを描いています。『歎異抄(たんにしょう)』の戯曲化とも言え、倉田を一躍有名にしました。

▲倉田百三

 倉田は明治24年、広島県庄原市の生まれで、家は豊かな呉服商です。明治43年に上京して第一高等学校文科で哲学を学び、同期生に芥川龍之介がいます。ショーペンハウエルや西田幾多郎に引かれ、宗教に関心を持つようになり、『校友会雑誌』に「宗教は自己に対する要求である。自己を真に生かさんとする内部生命の努力である」と書いています。

 その後、倉田は妹艶子の同級生だった逸見久子と恋愛関係になり、学業も捨て盲進します。しかし、逸見家の反対で恋は破局を迎え、失望した倉田は、結核に罹ったこともあって一高を退学し、須磨に転地療養します。

 大正3年に庄原に帰った倉田は、郊外で独り暮らしを始め、教会に通いキリスト教を信仰するようになります。その後、結核で広島病院に入院した倉田は、教会の依頼で見舞いに来た神田晴子に慕われますが、性と罪の問題で悩んでいた彼は、それを拒絶します。

 そのころ倉田は、京都に無所有と奉仕の生活共同体「一燈園」を開いた西田天香(てんこう)のことを、友人で宗教思想家の綱島梁川(りょうせん)の文章から知ります。

 西田が一燈園生活を始めたのは明治37年、トルストイの『わが宗教』を読み、「本当に生きようと思えば死ね」という言葉に感動したのがきっかけです。大正2年、京都・東山鹿ケ谷(ししがたに)の寄付された家で、同人(弟子)たちと暮らし始めます。入園を希望して訪れた青年たちに、天香は「ここは自分を棄てるところ、あなたは死ねますか」と問うています。

 24歳の倉田が一燈園に来たのは大正4年12月で、翌5年1月に健康上の理由で園を離れ、近くの下宿で神田晴子と同棲し、一燈園に通っていました。同年6月には姉の危篤の報を受け帰郷したので、一燈園とのかかわりは約半年でしたが、その後も天香との交流は続き、倉田は生涯「一燈園の同人」「天香の弟子」を自認していました。

 『出家とその弟子』の親鸞のモデルは天香だと倉田自身が語ったことから、一燈園は一躍有名になります。大正6年、天香への手紙で倉田は「私は親鸞をあなたとは全く違った性格に、非常に否定的な天才に描きました。何に対してもはっきりきめられない人にしました。南無阿弥陀仏の外には、具体的な定見の立たない人にしました」と書いています。天香と一燈園に触れたことが、彼の思索を深めたことは間違いありません。

 後に倉田は「『出家とその弟子』の追憶」で、「この戯曲は私の青春時代の記念塔だ。……私の青春の悩みと憧憬と宗教的情操がいっぱいあの中に盛られている」と書いています。同書を読んだ天香は、日記に「材料としてまことによく書かれたり。世の珍重すも道理也」と記しています。大正8年、『出家とその弟子』は一燈園の主催により京都公会堂で初演されました。

愛と性と罪の悩み
 私が同書を読んだのは、愛と性に悩みがちな大学1年の時です。春の寮祭で知り合った奈良の女子大生と付き合い始め、交流が深まるにつれ、真面目に愛そうとする気持ちと、そうではない自分が見えてきて、罪について初めて考えるようになりました。寮に出入りする学生運動家たちの実生活で、男女の愛憎劇を側聞したことも大きかったと思います。

 天香自身は男女の愛についてかなり厳格な人で、その生き方についていけないノブ夫人は実家に帰ってしまいます。その後、天香を慕う女性が続出したことから、ノブと正式に離婚し、奥田勝(後の照月)と再婚します。勝は天香が奉仕で出入りしていた木屋町のお茶屋の養女で、無所有の天香に養われなくてもいいと決心しての結婚でした。倉田の夢想的で甘美な愛に対して、天香の愛は現実的で厳しいものです。

 私は彼女と京都と奈良の寺社巡りをしながら、いろんなことを話しました。今でも印象的に覚えているのは、浄瑠璃寺のアジサイの鮮やかな青、そして延暦寺で聞いた読経の重低音の響きです。手紙をやり取りしながら、急速に仲が深まらないよう、自分の気持ちにブレーキをかけていました。

 ほぼ1年後には仲のいい兄妹のようになり、何でも話していました。そこで思ったのは、こんな関係になるしか、罪から抜け出す道はないのではないかということです。彼女との付き合いはそれで終わり、数年後に結婚した別の女性ともう40年以上になって思うのは、人間としての関係の大切さです。

 相手が伴侶だと思うと、つい期待したり、依存したりするのですが、一個の独立した人格だと思うと、誠実に対そうとします。そうなると高齢期の夫婦も互いに心地よく、倉田は私にとっていい反面教師になりました。