2020.06.07 17:00
日本人のこころ 2
青森・三内丸山遺跡~『古事記』(1)
ジャーナリスト 高嶋 久
日本の精神風土
1950年に遠藤周作と同じ船でフランスに留学し、カルメル会修道院に入って、カトリック教会の司祭になった井上洋治は、『日本とイエスの顔』(講談社)で次のように述べています。
「カトリック、プロテスタントの別なく、明治以来のキリスト教は、いわば苗をうえつけるのではなく、西欧の土壌で育った西欧キリスト教という大木をそのまま日本の土壌にうえつけようとしていたといえるでしょう。したがって、日本の武士道との結びつきをもった内村鑑三のような例外はあったとしても、全体的にみてキリスト教は日本の精神的風土と接触し噛み合うというところまでまだまだいっていなかったように思えます。その点、最近の遠藤周作氏の著作『死海のほとり』と『イエスの生涯』は、そのイエス像に賛成すると否とにかかわらず、初めて深く日本の精神的風土にキリスト教がガッチリと噛み合った、画期的な作品だといえるでしょう」
そして同書で『古事記』の冒頭を紹介しながら、「日本人は昔から、主観と客観という図式によってではとらえられない、人間も自然も共にそこから派生してくるような根源的な生命力ともよべるような何か、それをいつもいちばんたいせつなものとし、それを体験によってとらえることに、絶えざる憧憬と努力をはらってきたように思えます」と述べています。
その『古事記』の箇所を、三浦佑之(すけゆき)の『口語訳古事記』(文藝春秋)で見てみましょう。まるで古老のような語り口で書かれています。
「天と地とがはじめて姿を見せた、その時にの、高天(たかま)の原に成り出た神の御名は、アメノミナカヌシじゃ。つぎにタカミムスヒ、つぎにカムムスヒが成り出たのじゃ。この三柱のお方はみな独り神での、いつのまにやら、その身を隠してしまわれた。
そうよのう、できたばかりの下の国は、土とは言えぬほどにやわらかくての、椀(まり)に浮かんだ鹿猪(しし)の脂身のさまで、海月(くらげ)のごとく萌えあがってきたものがあっての、そのあらわれ出たお方を、ウマシアシカビヒコヂと言うのじゃ。われら人と同じく、土の中から萌え出た方じゃで、この方が人びとの祖(おや)と言うこともできるじゃろうかのう」
聖書では創世記の初めに当たる天地創造の物語で、「成り出た」というように、神が創造したのではなく、ひとりでに成ったというのが大きな違いです。高天原は天上の神の国で、数か所にここが高天原という言い伝えがあります。三柱と言っているのは、神は一柱、二柱と数えるからです。
井上洋治は、「むすび」という言葉に注目し、ものをうみだす不思議な力という意味だとし、早春に葦(あし)の芽がすくすく成長していく生命力のような神の名に、古代日本人の生命観、自然観を見ています。
縄文人の生命観
『古事記』は日本最古の歴史書で、古代律令国家を建てた天武天皇が国史の編纂を命じ、和銅5年(712)に太安万侶(おおのやすまろ)が完成させ、元明天皇に献上したものです。資料となったのは、抜群の記憶力を持つ稗田阿礼(ひえだのあれ)と豪族の家に伝わる文献や各地に伝承されてきた話などです。
日本に漢字が伝わってきたのは3〜4世紀のことで、それまでは日本語の表記文字はなかったとされています。口で伝える口承文学の時代で、文字に頼る現代人とは違った感覚で生きていたと思われます。
『古事記』が編纂されたのは奈良時代ですが、その元になった話は、約1万5000年前から紀元前4世紀頃まで続いた縄文時代に語り伝えられたものでしょう。ちなみに、縄文時代は世界史的にも貴重な時代で、磨製石器を造る技術や煮炊きなどの土器の使用、農耕と狩猟採集がミックスした暮らしで、人々が定住するようになった社会とされています。その代表的な遺跡が青森県の三内(さんない)丸山遺跡です。
遺跡の中心に大型の掘立柱の建物があり、その周りに多くの竪穴住居や高床式倉庫が、また祭祀に使ったと思われる6本柱の高い建造物が再現されています。周りの森のクリは植林されたもので、ゴボウや豆なども栽培し、最盛期には約500人が暮らしていたとされます。
興味深いのは、大人の墓は集落から海へと行く道沿いに、向かい合せに、頭を外側にして並べられ、子供の遺骸は土器に入れ、1か所にまとめて埋葬され、中には石が入れられているものが多いことです。
ここから縄文人の精神性を推測すると、人々は死者と共に暮らし、子供の蘇りを願う姿が想像できます。北海道の遺跡からは、子供の足跡を残した粘土板が発見されていて、子供の再生を祈る母の想いが読み解けます。そんな精神風土から生まれた物語が語り継がれ、記録されたものが『古事記』なのです。