日本人のこころ 1
長崎~遠藤周作の『沈黙』

(APTF『真の家庭』222号[4月]より)

 2018年7月~11月にかけて配信していた「日本人のこころ(全19回)」は、いったん連載を終了していましたが、このたび再開することとなりました。
 改めて第1回から配信し、未公開の記事(20回~)も順次配信してまいります。
 お楽しみに!

ジャーナリスト 高嶋 久

映画『沈黙サイレンス
 今年121日、マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙サイレンス』が公開されました。原作はカトリック作家・遠藤周作の名作『沈黙』で、51年前に刊行され、純文学では珍しくベストセラーになった小説です。同作は約13か国語に翻訳され、世界で600万部以上売れるなど、海外からも高く評価されました。

 遠藤が同作で探求したのは、西洋文明の根底にあるキリスト教と日本との出合いです。キリスト教が初めて日本に伝わったのは、スペイン生まれのイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した1549年のこと。鉄砲伝来とほぼ同じで、大航海時代のヨーロッパが極東にまで手を伸ばした時代です。

 ザビエルが「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう」と手紙に書いたほど日本人を高く評価したことがイエズス会の宣教熱を高め、多くの宣教師が派遣されます。

 宣教師たちはキリスト教とともに西洋の進んだ文物や武器を日本に持ち込みました。戦国時代の当時、大名たちの関心を引いたのはむしろ大砲や鉄砲、火薬などで、最新の武器を手に入れれば、領国争いに勝てるからです。動機はともかく、宣教師と交流するなかでキリスト教に引かれる大名も現れ、領民たちを改宗させたこともあって、弾圧が厳しくなる前の1605年には全国で75万人ものキリシタンがいるほど布教に成功しています。

人と共に苦しむ神
 『沈黙』の舞台は、キリシタン弾圧がピークを迎える1637年の島原の乱の頃です。イエズス会の高名な神学者で日本宣教の最高責任者のフェレイラが、苛酷な弾圧に屈して棄教したという報せがローマにもたらされたのです。フェレイラの弟子のロドリゴとガルペは真偽を確かめるためマカオで会ったキチジローの手引きで日本に潜入し、隠れキリシタンたちに出会います。しかし、2人はやがて長崎奉行所に追われる身となり、ガルペは命を落とします。拷問を受ける信徒らのために、ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈りますが、神は「沈黙」したままでした。

 キチジローの密告で捕らえられたロドリゴの前に現れたのは、棄教した師フェレイラ。イエスの教えに従い苦しむ人々を救うため棄教したと言い、踏み絵を踏んだキリシタンたちも、ロドリゴが棄教しない限り許されないと告げられます。長崎奉行の井上筑後守(ちくごのかみ)は元キリシタンで、日本人にとってキリスト教は迷惑な教えだと迫ります。フェレイラは、信徒たちを救うために棄教するか、自分の信仰を守り通すため棄教しないか、その選択を迫られたのです。彼が最後に選んだのは、師と同じ踏み絵を踏むことでした。

 ロドリゴが踏み絵を踏む時、踏み絵のイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」と語りかけます。

 神は沈黙していたのではなく、共に苦しんでいたのだというのが『沈黙』のテーマで、ロドリゴは棄教することで、むしろ本当の信仰に目覚めたという物語になっています。父のように君臨する神ではなく、母のようにそばにいる神、共に苦しんでくれる「同伴者イエス」という信仰が、小説を通して語られていくのです。

 遠藤は、もし自分が当時のキリシタンなら、踏み絵を踏んでしまう側にいただろうと思い、弱い人間にとっての信仰を探求します。ですから、小説の主人公はロドリゴでありながら実は転んでも転んでもまた戻ってくるキチジローで、キチジローによってロドリゴが救われるという話になっています。遠藤自身の信仰遍歴を投影したのがキチジローだったのです。

西洋文明との出合い
 遠藤がカトリック教徒になったのは、父との離婚で傷心し教会に通うようになった母に、10歳の時に勧められたからです。しかし、体に合わない洋服を着せられたような感じで、それを自分なりに仕立て直していくのが、以後の彼の信仰路程となり、それを文学に表現するようになります。

 日本人の心性、信仰を歴史的に大きく見ますと、縄文時代に培われた自然信仰の上に、6世紀に仏教が渡来し、以後は神仏習合の信仰が基本になります。あらゆる存在に神の内在を認める神道的な信仰から、「山川草木悉皆(しっかい)成仏」(草木国土悉皆成仏とも言い、すべてのものは仏になれるという教え)の日本的仏教が誕生したのです。

 戦国時代の前には、寺院が広大な荘園を所有し、僧兵を擁するなど武士に匹敵するような権勢を誇るようになっていて、それを打ち壊したのが、比叡山焼き討ちを断行した織田信長で、近代への扉を開けたとされます。西洋文明が日本に渡来し、キリスト教の世界観に共感した信長は、壮大な安土城を建て、天守閣を「天主」と呼んだほどです。

 そうした西洋文明の、その本質であるキリスト教とまともにぶつかったのが長崎で、それゆえ多くの奇跡的な物語が生まれます。『沈黙』の舞台となった長崎市外海(そとめ)地区には、明治以降に建てられたロマネスク風の教会があり、今も人々の祈りの場となっています。