家族の絆づくり 99
神様が喜ばれる祈りとは?

ナビゲーター:阿部 美樹

神様のみ意を尋ね求める祈り

 私たちの信仰生活における「祈り」の見本となるのは、イエス様の祈りであり、真の父母様の祈りです。
 イエス様と真の父母様の祈りには、どのような特徴があるのでしょうか。
 摂理的に最も重要な時に、どのような祈りをささげられたのでしょうか。

 イエス様の十字架を前にしたゲッセマネにおける三度の祈りは、いかなる祈りより深刻な祈りでした。
 イエス様は、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイによる福音書 第2639節)と祈られました。

 「過ぎ去らせてください」とは、自分の苦痛から逃れるためではなく、神様の創造目的が成就するか否かは自分の一身にかかっていたからであり、そのみ旨を成し遂げることができるようにという懇切な祈りでした。

 しかし、「わたしの思いではなく、みこころのままに」と祈られたのは、自分の思いどおりにするよりも、神様のみ意(こころ)を尋ね、「どんな内容でも感謝して神様のみ意どおりにします」「私というものは存在しません」「神様、あなたが悲しく心痛めていらっしゃるのですね…」という思いでささげられた愛の祈りでした。

 私たちの祈りはどうでしょうか。私の心配事や願い事ばかりになっていないでしょうか。それよりも、神様のみ意を尋ね求め、神様を愛する祈りが必要です。

祈られる真のお父様(文鮮明先生)

真のお父様の「~してください」という祈り

 真のお父様は、困難に直面された時にどのような祈りをささげられたでしょうか。
 監獄での祈祷を紹介いたします。

 「悲しい神様のみ手をつかんで慰めるのに忙しかったのです。『絶対にこの息子を慰めないでください。私は生きています。神様が何もしてくれなくても、アダム自体が神様に対して信仰を立てられずに堕落したその恨の峠を越えていくことができる、そのような決意をもった息子、娘になろうと思いますので、私に協助しないでください』と祈ったのです」(『天一国時代の祈祷』p.334)

 「私が監獄に行けば、会わせてくれると天が約束した人がいることを知っていたので、希望を抱いて行った男です。臭い飯を前にしても、天の前に感謝の涙を流しながら民族のために祈祷した人です。受難の道に追いやられた立場でも、民族を忘れたことがなく、世界人類を忘れたことがありません」(『天一国時代の祈祷』p.335)

 このように、受難の場でも神様にささげる「感謝の祈り」であり、神様を「愛する祈り」でした。
 真のお父様も「~してください」と祈りますが、「使命を果たす孝子孝女にしてください」「力強く前進して勝利できるようにしてください」と、ご自分の責任を中心として祈られるので、常に神様に対する孝と愛の心情でささげられています。