愛の知恵袋 88
集める人生、与える人生

(APTF『真の家庭』207号[2016年1月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

自分が死んだあとに残るものは何か

 新年おめでとうございます!

 皆様とご家族にとって今年が良い年になりますよう心からお祈りいたします。

 最近は内外ともに多事多難な時代で、何かと落ち着かない日々ですが、お正月は新しい1年を出発する大切な時ですから、ここで一息ついて過去を振り返り、「自分はいかに生きてきたのか、そして、これから残った時間をいかに生きるべきなのか…」じっくり考える時間を持ってみたいものです。

 そんな心境の時、思い浮かんでくる言葉があります。

 「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなく、われわれが与えたものである」(ジェラール・シャンドリ)

 この言葉は、作家・三浦綾子氏の『続・氷点』の中で引用されていた言葉ですが、その後、心に残る名言として、多くの人たちに広まりつつあります。

 三浦氏はバルバロ神父の著書『三分の黙想』から引用されたそうですが、さらにルーツを探ると、Gerard Chaudryという名前の人物の言葉として出てきます。綴(つづ)りからすると、ジェラール・ショドリーという名前になりますが、フランスの聖職者であったようです。どのような生涯を送った人なのかは記録がありませんが、彼が残したこの言葉は奥の深い名言だと思います。

“集める生き方”がたどり着いたところ

 数年前、ある会社社長の夫人から相談を受けた時のことを思い出します。彼女の夫は幼い頃、親の事業の失敗で辛酸(しんさん)をなめており、「自分は絶対に成功して世間を見返してやる」と決心したそうです。戦後の高度成長時代のチャンスを生かして、裸一貫からのし上がり、多くの支店を持つ大会社の社長になって財を築き上げました。

 結婚して三男一女の子供に恵まれ、周囲からうらやましがられる有名人にもなりました。一家は一等地に広壮な邸宅を構え、別荘もあり、何ひとつ不自由のない生活ができました。夫は趣味でクラシックカーを買いそろえ、財産価値のある絵画骨董の収集にも余念がありませんでした。しかし、その夫も高齢になり病気で入退院を繰り返すようになり、今は予断を許さない病状になっているとのことでした。

 この夫人も、地域の名士の奥様になり裕福な生活を送れたという点では不服はありませんでしたが、彼女には人に言えない悩みがありました。一つは、夫には別の女性がいて、そのことでうつ病になりかねないほど悩んできたこと。もう一つは、仕事絶対主義で家族を顧みなかった父親と子供たちとの間に葛藤があることです。

 すでに会社の後継をめぐって複雑な確執が生じており、さらに、これから夫が他界した時には深刻な遺産争いが起こりそうで、「今から考えただけでも気が滅入ってしまいます」と言うのです。「いっそ、こんな財産なんて無いほうが良かったのに…」とつぶやく夫人の姿が印象的でした。

 出世をして財産を蓄えることが悪いのではありませんが、たどり着くところがこれでは、苦労した甲斐がありません。

与えた愛のみが永遠に残る

 新約聖書に、イエス・キリストのこんな言葉があります。

 「盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい」(ルカ伝1233節)

 人には誰でも「不自由なく裕福に暮らしたい」という欲求があります。「有名になって注目されたい」という願望や、「人の上に立って思うように治めたい」という権力欲もあるでしょう。

 それらの欲望を持つこと自体が悪いわけではありません。多くものを手に入れても、それらを人々に分かち与えるのであれば問題はありません。

 しかし、結局のところ、地上の人生では名誉も地位も財産も「ほどほどで良い」のではないでしょうか。家族や他人を犠牲にしてまでそれらを手に入れても、自分が死んだ時には、心から惜しんでくれる人はいないでしょう。彼らの恨みを買いこそすれ、感謝はされていないからです。また、財産をため込んでもあの世にもっていくことはできませんし、なまじ残したがゆえに子供たちの醜い遺産相続争いを見ることになるかもしれません。

 反対に、自分を与える生涯…つまり、家族や親族を愛し、社会と国家に貢献し、世界の人々のために尽くしていくような生き方ができれば、たとえ身一つで死んだとしても、自分が愛した全ての人達から感謝され、彼らの心の中に永遠に生きることになるでしょう。

 「受けるよりは、与えるほうが幸いである」と言われたイエス・キリストの言葉。その言葉通りの生き方を貫いた、マザーテレサの生涯はまぶしくさえ感じるのです。