愛の知恵袋 89
95年目の恩返し

(APTF『真の家庭』208号[2016年2月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

窮地に追い込まれた日本人

 日本からはるか離れたイスラム教の国トルコがどうして親日的なのか? その理由を私が初めて知ったのは今から30年前、1985年のことでした。

 当時はまだ米ソ冷戦のさなかにあり、国内でも左翼学生運動や労働組合の闘争が絶えない緊迫した時代でした。世界の火薬庫・中東で勃発したイラン・イラク戦争は1980年から1988年まで続きました。

 両国の戦闘が激しさを増し、双方の攻撃の応酬で都市も空港も毎日爆撃にさらされるようになりました。そんなさなかの1985317日、イラクのサダム・フセイン大統領は突然48時間の猶予期限を宣告し、以後イラン上空を飛ぶ全ての航空機は無差別に撃墜すると宣言したのです。

 イランに残っていた外国人は、直ちに国外に脱出すべく国際空港へ殺到しました。各国大使館は定期便では対処しきれず、自国政府に緊急の救援機派遣を要請しました。

 当時、イランには日本人がまだ215名も残っていたので、日本大使館の野村豊大使は直ちに日本政府に救援機の派遣を要請しました。しかし、法整備の不備から自衛隊は人道目的も含めて外国での活動が一切許されていなかったため派遣ができず、やむなく政府は日本航空に派遣を要請しました。日本航空では、救援機乗務に志願してくれた機長もいましたが、「安全が確保されていない」という理由で乗務員の労働組合が拒否し、派遣は断られました。

 「救援機は来ない」という知らせに、日本人たちは呆然としました。絶望的な状況のなか、大使は職員と共に最後まで残って邦人を守る決意を固め、残された唯一の手段として他国の救援機に乗せてくれるよう交渉に奔走しました。しかし、どの国も自国民の救出で精いっぱいで、受け入れてはくれませんでした。

 野村大使は、最後に個人的に親しかったトルコの駐イラン大使イスメット・ビルセル氏に頼みました。すると彼は必死にトルコ政府に働きかけてくれました。さらに、トルコのオザル首相と10年来の親交のあった伊藤忠商事のイスタンブール支店長・森永氏の嘆願を受け入れて、同首相が救援機の最終便を2機に増やすことを約束してくれたのです。政府から要請を受けたトルコ航空がこの危険な任務の志願者を募ったところ、驚くことに、その場にいたパイロット全員が手を挙げてくれました。

 こうして最後の救援機2機がテヘランに向かいましたが、空襲警報の鳴りやまぬメヘラバード空港では思いがけない事態が起きていました。脱出を待つトルコ人が600名以上も押しかけていたのです。

 「だめだ…、私たちは到底乗せてはもらえないだろう…」。日本人は誰もが絶望の思いになりました。しかし、その時、我先に乗ろうとする同胞を制して、「日本人のためにこの飛行機を譲ってくれ!」と必死で説得してくれたトルコ人がいたのです。

 奇跡が起こりました! 彼らは、救援機には日本人を優先的に乗せ、乗れない500名は2日間かけて陸路でイランを脱出するという案に同意してくれたのです。

 日本人を乗せた最後の1機が離陸できたのはタイムリミット直前で、国境越えを知らせる「ようこそ、トルコへ」という機長のアナウンスに、誰もが泣いたそうです。

▲日本人を運んだトルコ航空のDC-10イズミル号(ウィキペディアより)

エルトゥールル号遭難事故の恩返し

 当時、日本政府もマスコミも「どうしてトルコは自国民をあとにしてまで、日本人を救ってくれたのか?」と不思議に思いました。その時、駐日トルコ大使が、「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」と短いコメントを表しました。

 1890年(明治23年)916日。日本で587名の死者・行方不明者を出した海難事故がありました。1887年、日本政府は初の国産軍艦を操船して欧州を歴訪。その途上、イスタンブールを訪問して、オスマン帝国の皇帝に明治天皇の親書を手渡しました。これに対する答礼としてオスマン帝国から派遣された650余名の乗員が軍艦エルトゥールル号に乗って来日し、明治天皇から歓待を受けました。その帰国の途上、激しい台風に襲われて和歌山県の大島沖で座礁し、艦は水蒸気爆発を起こして沈没しました。大島村の漁師たちは女子供も総出で彼らを救助し、69名の生存者を献身的に介護し、死者は丁重に埋葬しました。極貧の生活の中にあった村人は自分の食物を減らして彼らに分け与えました。彼らは村を去る時、皆涙を流したそうです。そして政府は彼らを神戸に移して病院で手厚い治療をしたのちに、2隻の軍艦で故国トルコまで送り届けました。

 帰国した彼らの報告を聞いた皇帝は深く感銘し、現地の新聞にも大きく報道されました。また、この実話が教科書にも載せられたこともあって、多くのトルコの人々の心に日本人への好意が生まれたのです。

 遭難事故から95年を経て、今度は日本人がトルコの人々の真心で救われました。

 2015年は日本・トルコ修好125周年でした。映画『海難1890』が製作され劇場公開されました。ぜひ、お子さんたちも一緒に見てほしい作品です。

 私たちの人生において、親友を持てるということがどんなに幸せなことでしょうか。同じように世界でも、全ての国と国がこのような真心で結ばれる日を1日も早く実現させたいものです。