2019.06.10 17:00
信仰と「哲学」26
善について~心の清い人は神を見る
神保 房雄
「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。
聖書の「マタイによる福音書」第18章1~3節に次のようにあります。
「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、『いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか』。するとイエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。...」
さらに同第5章8節には「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」とあります。
西田幾太郎の言う「純粋経験」と響き合う聖書の言葉です。
経験を事実そのままに受け止めることが重要であり、それは「自分が」という意識を持つ以前のものだというのです。「自分が」という意識を持てば、そこに主体と対象との分離が起こり、経験そのものが変容してしまい、本当のものから遠ざかると考えたのです。
「心の清い人」や「幼な子のように」との言葉の中に、西田が本当のことを知る、真実在、神を知る意識状態の在り方や姿勢と同じものを見ていたことが分かります。
「純粋経験」について、西田は次のように説明しています。
「経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっているものもその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。例えば色を見、音を聞く刹那、いまだこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかというような考えのないのみならず、この色、この物は何であるかという判断すら加わらない前を言うのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇(さいじゅん)なるものである」(『善の研究』17ページ)
さらに、善の行いについて次のように述べています。難しい表現ですが、そのままご紹介します。
「善行為とはすべて自己の内面的必然より起こる行為でなければならぬ。さきにいった様に、我々の全人格の要求は我々が未だ思慮分別せざる直接経験の状態においてのみ自覚することができる。人格とはかかる場合において心の奥底より現れ来たって、おもむろに全心を包容する一種の内面的要求であるの声である」
「至誠とは善行に欠くべからざる要件である。キリストも天真爛漫嬰児のごとき者のみ天国に入るを得るといわれた。至誠の善なるのは、これより生じる結果の為に善なるのではない。それ自身において善なるのである。人を欺くのが悪であるというのは、これより起こる結果によるよりも、むしろ自己を欺き自己の人格を否定するのゆえである」(『善の研究』202、203ページ)
西田の哲学は自身の宗教的体験の表現でした。