2019.05.27 17:00
信仰と「哲学」25
神保 房雄
「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。
人間が「善く生きる」ということは、まず、個人的四位基台を造成することであると原理講論に記されています。
「神の第一祝福は個性を完成することにある。人間が個性を完成しようとすれば、神の二性性相の対象として分立された心と体とが、授受作用によって、合性一体化して、それ自体において、神を中心として個体的な四位基台をつくらなければならない。神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって(コリントⅠ・三・16)、神と一体となるので(ヨハネ一四・20)、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活をするようになる」(『原理講論』66ページ)とあります。
ここに、「神を中心として個体的な四位基台をつくらなければならない」とありますが、まず、「神を中心として」との文言が重要です。どのように生きることが神を中心とすることなのかということです。
イエスは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイによる福音書 第22章37節)と語られましたが、その意味について考えてみたいのです。
人間が「本当のこと(神を初めとする実体)を知る」とは、どういうことなのかを多くの哲学者たちが求めてきましたが、ここで、誰よりも徹底して突き詰めた哲学者を紹介したいと思います。その人は、西田幾多郎(1870~1945)です。
学生時代に購入した『哲学概論』(岩波書店)が私の書棚にあります。『原理講論』や聖書とともに、考え方を整理する時、幾度も手に取って、開いた所を読んできました。
本当のことを知るために突き詰めた哲学者としてデカルト(1596~1650)が知られています。
デカルトは、「コギト・エルゴ・スム」(われ思う、ゆえに我あり)という命題を提示しました。
全てを疑って本当のことを知ろうとする中で、何が本当のことなのかと考えている自分自身の存在は疑うことができない、というのです。
「われ思う」という原点、思っている自分という存在の確かさから、本当のことの探求を始めていかねばならないというのです。
西田もまた、疑って疑い抜き、疑い得ないものから出発すべきであると考えました。しかしその方法はデカルトを超えるものだったのです。
西田の哲学的な立ち位置は常に、「純粋経験」というものでした。西田は、純粋経験を立脚点とする理由として、疑い得るだけ疑った結果、残った唯一のものだから、と述べています。
これから、西田が提示した純粋経験について説明してみます。