信仰と「哲学」27
善について~神を知る「純粋経験」

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 西田幾多郎は、純粋経験が真実在(本当のもの、善なるもの、神)との関わりにつながると考えていたといえるでしょう。

 しかし純粋経験は、普通に「経験」と言っていることではないといいます。普通の経験には既に思慮分別が入っているというのです。

 この色は赤い、赤いバラであるとか、この音は雷の音であるという経験には、すでに私の思慮、判断が入っているのです。私=「主」とバラや音=「客」とが分離しています。

 純粋経験とは、色を見、音を聞く瞬間、これが外部の作用であるのか、私がこれを感じているのかというような考えのない、この色、この物が何であるかという判断が加わる前の経験なのです。このような直感や直覚、ひらめき、悟りの状態が純粋経験といえるでしょう。

 純粋経験すなわち直感、直覚、ひらめき、悟りの状態は「何だろう、これは」という意識の状態といえます。
 皆さんも、「何だろう、これは」との感覚を抱いたこと、そのような思いに襲われたことはありませんか。

 きっとあると思います。そこに悲しみや喜びが伴い、自然に涙が流れる、などという経験です。これが純粋経験です。

 このシリーズの18回目で文鮮明総裁のメッセージを紹介しました。もう一度紹介してみます。純粋経験と重なる内容です。

 <「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではないのです。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は私が考える前にいたのです。私のすべての感覚、私の一切を主管する天ではないかという立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。

 私たちは寒ければ寒いというのを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのではないですか。これと同じように神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。言い換えれば体恤(たいじゅつ)的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。>(『天聖経』「真の神様」より)

 ここに「私たちが寒ければ寒いというのを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのではないですか」とあり、「神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません」と強調しておられます。

 「何だろう、これは」という感覚を大切にして生活することが、神と共にある生活を体恤(経験を通して血とし肉とする)することにつながるといえるでしょう。