信仰と「哲学」19
善について~偉大なソクラテスの問い

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 今回から「善について」述べてみたいと思います。

 「人間はなぜ生きるのか?」という問いがあります。ほとんどの人が、いや全ての人が一度は考えたことでしょう。考えたことがあったとしても既に忘れた人もいるでしょう。また「別のこと」でその思いから「逃れた」人もいると思います。悲しいことに、生きる意味を見いだすことができず人生を儚(はかな)み自死を選んだ人もいます。

 この問いに対する答えは、個人的状況に左右されるものであってはなりません。誰かの人生には意味があるが、別な人の人生は無意味というものであってはならないのです。
 さらに何らかの条件(経済的環境、身体能力、知性や感性など)に恵まれたり、何かを達成したりした人生は意味があるが、それがなければ無意味であるといったものであってはなりません。

 この普遍的な問いは、「自分はなぜ生きるのか」といった個人的問題でもないのです。誰の、どのような人生であれ、およそ生きること自体に意味があるのか、という問題であり、その回答が欲しいのです。

 人間は働きます。ある人は、働くのはお金を稼ぐためだと言います。お金を稼ぐのは生きるためです。しかしその生きるのは何のためなのでしょう。自己実現をするために働くと言う人もいます。でもどうして自己実現しなければならないのか、しようとするのか。また、一度自己実現したらその後はどうしたらいいのでしょうか。

 「人間はなぜ生きるのか」という問いは、もっと根源的な、人間という存在の本質にかかわる「観」の確立を求めるものと言わなければならないのです。

 『原理講論』の総序には、人間は「不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている」と記され、さらに人間は、「悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである」とあります。

 これが「人間はなぜ生きるのか?」に対する答えです。すなわち、人間は幸福を求めて生きるのであり、幸福の実現とは善とは何かを知り、善を指向する欲望に従って生きることによりなされるというのです。

 焦点となるのは「善とは何か」ということです。人間はただ生きるのではなく、「善く生きる」ということによって幸福になる、それが「人間はなぜ生きるのか?」の答えです。

 善とは何か。多くのギリシャ哲学者の中で、また哲学の歴史の中で「善、美、知識とは何か」などを問題にしたのが、ソクラテスでした。