信仰と「哲学」18
神を「知る」ということ~直感と共鳴

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 神を「知る」ことについて、現段階でのまとめをしておきたいと思います。

 神を知る努力を理論的に進めることには重要な意味があります。繰り返しになりますが、それは、「同じ」を理解する人間の心の本性に従うことなのです。

 神への信仰は人間が人間らしさを失う(人間疎外)原点だ、とマルクスは主張しました。「宗教はアヘンである」(「ヘーゲル法哲学序説」)と断言したのです。
 この考え方は根本的に間違っており、人間が神と関わる道を妨げるものです。

 しかし、神を「知る」ことについて、インマヌエル・カント(ドイツの哲学者、1724年- 1804年)が言うように、人間の理性による方法では限界があるのです。

 文鮮明先生は神を認識する=「知る」ことについて、次のように述べています。

 「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではないのです。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は私が考える前にいたのです。私のすべての感覚、私の一切を主管する天ではないかという立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。
 私たちは寒ければ寒いというのを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのではないですか。これと同じように神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。言い換えれば体恤(たいじゅつ)的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。(『天聖経』~「真の神様」より)

 さらに、神を認識することを共鳴という言葉で表しています。

 ただ、愛のみが、全ての障壁を超越します。私たちが真の愛の中で神と一つになるとき(夫婦一体)、私たちは神の肉体的 ・霊的被造物に対する支配が可能になります。徹底して他のために生きる時、初めて私たちは神の本質に到達することができます。そうすれば、神の御旨(みむね)が人間の御旨となり、神が感じることが自然に人間に伝わってくるのです。
 このように生きるなら、人間は神の心情と愛に共鳴する器となります。二つの音叉が共鳴し合うように、人間と神は常に共鳴し合うようになるのです。これがまさに究極的な人間の原状なのです。(「モスクワ大会での基調講演」1990年4月9日)

 神との共鳴が起こる時、人間は直感で神を「知る」ことになるのです。
 神霊を心霊で「知る」のです。

 神を感じながら生きる、これが本来の人間の姿だというのです。