信仰と「哲学」17
神を「知る」ということ~イエス・キリストの「戒め」の意味

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 ドイツの哲学者フッサール(1859~1938年)は、人間の意識の特性は志向性にあると言いました。
 全ての意識は何者かについての意識であり、常に一定の対象に向かっているというのです。人間は結局、多くの対象との関わりの中で生きているのであり、孤立して存在しているのではないのです。

 志向性を本質とする人間の意識ですが、養老孟司氏が指摘するように、人間の意識が動物と違うのは「同じ」を理解できることにあります。それが人間の本質、人間らしさの基本であることを確認することが必要なのです。

 既に説明してきたように、「同じ」を理解できる能力は、人間の意識をして自然に「唯一神」=神を志向させ、さらに自然に「相手の立場に自分を置くことができる」ように導く、すなわち他者を志向するように導きます。

 聖書に記されているイエス・キリストの言葉として、以下の内容があります。

 そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスを試そうとして質問した。「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイによる福音書22章35~40節)

 人間の意識が持つ志向性の中で、最も重要なものは神と隣人(他者)へのそれであり、その特性を発揮することが、繰り返しになりますが、人間が人間として生きていく基本であると指摘しているのです。

 「いましめ(戒め)」との表現には、在るべき人間の姿に戻そうとする神の意志が現れています。「戒め」に従って生きることは、人間らしく本来の姿で生きること、人間としての本来の姿を復帰することなのです。

 心と体から成る人間です。まず、揺れ動く意識を定めなければなりません。軸足を固定するのです。そして体との調和を図るのです。神との共鳴・共振が始まる土台です。(続く)