信仰と「哲学」20
善について~心砕く「偽善者」の呼称 

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 人それぞれとは思いますが、私にとって最も傷つく呼称は「偽善者」でした。他人に対する評価の中心にも、それを置いていたのです。

 私の母親は家族のために全てをささげた人でした。すでに10年前に他界しましたが、母について振り返っても「自分のことを優先する」姿を思い出すことができません。心から尊敬しています。

 しかし、子供の頃に、母について一つだけ嫌だったことがありました。他人の言葉や行動を批判することが、時に、あったのです。その人のいる所では言わないのに、その人がいない所で批判する、それを「偽善」と感じました。

 いつの頃からか、「偽善者」との呼称は、自分の心を砕く最も大きな力を持つものとなっていたのです。もちろん母が原因ということではありません。気付きのきっかけとなったに過ぎないのです。

 私は自分の「偽善」性を最もよく知っています。他人は自分の鏡です。「自分は最も罪深い存在だ」という意識はいつもついて回りました。どうしたらこの呼称から逃れることができるのか、考えました。祈りました。

 しかし結局、逃れる方法は二つしかありません。一つは悪に徹することであり、今一つは善に徹することです。選択肢は後者、すなわち善に徹するしかないということなのです。このように考えてきた私にとって、「善とは何か」という問いは切実なものでした。

 「善とは何か」とは、「善く生きるとはどのようにすることなのか」と同義です。価値を表す言葉として真・美・善があります。真や美を包含する価値を表す言葉が善といえます。善く生きるということは、真実に生きる、美しく生きるとも言い換えることができるからです。

 哲学は、「~とは何か」「本当はどうなっているのか」を問い、探ることを言います。善く生きるための前提を確かなものにするのです。

 ギリシャの最初の哲学者といわれるタレス(紀元前6世紀)は、宇宙や惑星、山河や動植物、そして人間など全てを含んだ万物について、その大元=本体を問い、探りました。その結果、それは「水」であるといったのです。

 他に多くの哲学者が現れ、「~とは何か」を説明しました。皆、万物が存在するメカニズムや在り方に応えようとするものでした。

 ところがソクラテスの問いは違っていました。大元の存在や現存する万物や人間と、どのように関わることが善なのか、美なのか、正義なのか、すなわち人の生き方を問うという大きな転換をもたらすものだったのです。
 今日までその問いは生き続け、新しさを失っていません。