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誤解されたイエスの福音 23

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「誤解されたイエスの福音」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 パウロのイエス観は果たして正しかったのか。イエス・キリストの再臨期を迎えた今、聖書の記述をもとに徹底検証します。

野村健二・著

(光言社・刊『誤解されたイエスの福音』〈2011111日初版第1刷発行〉より)

第二章 イエスの本来の使命

五、イエスの復活をめぐって

イエスの復活は肉体か霊か
 さて、イエスは神の第二次摂理に従って、十字架→復活→再臨というコースを歩むようになったと言いましたが、その復活は肉身(肉体)でもってなされたのでしょうか、それとも霊人体(霊)でなされたのでしょうか。

 パウロは肉身の死は人間始祖(アダム)が罪を犯したために生じるようになったのであり、イエスの十字架の贖(あがな)いを信ずれば、罪から解放されてイエスの体の復活と同じ恵みに与り、死ななくなると本気で考えていたようです。

 「……ひとりの人(アダム)によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」(ローマ512)。したがって、「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである」(同689)。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物(たまもの)は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(同623)。

 特に次の箇所は、イエスが死から「からだ」を持つというかたちでよみがえられたと見るのでなければ意味が通じなくなります。

 「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊(みたま)が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」(同811)。

 パウロがこれほど繰り返し同じことを言うからには、どうしても彼が次のように信じていたとしか考えられなくなります。

①アダムは罪を犯したので、その罰で死んだ。

②イエスはその罪を贖うために死んだ後に「からだ」をもって復活された。

③ゆえに、イエスの復活を信ずる者は死ななくなる。

 極めて単純明快な三段論法です。ここで、最後の結論が「死なくなる」なのですから、「霊的復活」では意味をなさず、どうしてもイエスは「からだ」をもって復活したというのだと受け取らざるをえません。

 これはパウロがイエスの召命から受けた印象があまりにも鮮明で、霊的に復活されたのではなく、死ななくなったイエスの復活した体がそのまま自分に臨んだとしか思われなかったから、こう考えたのでしょう。実際、パウロはその体験を次のように紹介しています。

 「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことがあった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬(ほうむ)られたこと……三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたこと……そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。……そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである」(コリントⅠ1538)と語っています。

 しかしその目撃体験がいかに鮮やかだったとしても、イエスの体はパウロに臨む前と後には一体どこにおられたというのでしょうか。それが実体の体であれば消えてしまうはずはなく、何かを食べ、着、どこかに住み、人にもその姿を見られていなければなりません。そういうことが全く考えられない以上、イエスは肉的にではなく霊的にだけよみがえられたとしか考えられず、こういう論理的・科学的思考がパウロにおいては抜け落ちているのを見いだします。

 こう言うと、多分、お墓に死体が無かったことを根拠にイエスの肉体による復活を信ずるクリスチャンは、ルカによる福音書の次の箇所はどう考えるのかと指摘することでしょう。「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、『なぜおじ惑(まど)っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ』。〔こう言って、手と足をお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが『ここに何か食物があるか』と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」(ルカ243643)。

 あるいはヨハネによる福音書の次の箇所を見よと言われるかもしれません。「ほかの弟子たちが、彼(デドモと呼ばれているトマス)に『わたしたちは主にお目にかかった』と言うと、トマスは彼らに言った、『わたしは、その手に釘(くぎ)あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない』。……(イエスは)トマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。……『見ないで信ずる者は、さいわいである』」(ヨハネ202529)。

 しかし、イエスがこのトマスの前に現れる直前に、「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた」(同2026)とあり、その前にも、「一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」(同2019)と書かれているのです。

 一体どうして肉体を持った者が二度も、「閉ざされた戸」をあけることもせずにそのまま入って来られるというのでしょうか。また、「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた」(コリントⅠ156)などという芸当がどうしてできたのでしょうか。

 さらに、使徒たちの前に現れて四十日、弟子たちに神の国のことを語って教育された後、「『……ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』。こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった」(使徒179)とありますが、体をもつ者にどうしてそんなことができるでしょうか。

 しかし、両福音書に書かれているイエスが霊であるというのなら、どうして自分の「肉と骨」、「手と足」を見せ、十字架の「釘あと」や「わき」を見せることができるのかという反問が出るかもしれません。しかし霊眼で実際に霊(霊人体)を見た経験のある方(私にも多少の経験はあります)ならお分かりだと思いますが、霊人体は肉身の若いときの姿、年を取っての姿をも自由に現すことができます。イエスは自分の復活についての信仰を持たせるために、神の力を借りて、それらのものをまざまざと見せることによって、イエスが生きて現れたかのように見せ、信徒に勇気と喜びをお与えになったのではないでしょうか。

 実際、パウロ自身も後日、どうやら自分が見たのはイエスの通常の肉体ではなく、霊の体であったということに気づいたと見え、コリント人への第一の手紙では次のように書いています。「死人の復活も、また同様である。朽ちるもの(肉)でまかれ、朽ちないもの(霊)によみがえり、……肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである」(コリントⅠ154244)と。

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 次回は、「死とは」をお届けします。


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