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誤解されたイエスの福音 22

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「誤解されたイエスの福音」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 パウロのイエス観は果たして正しかったのか。イエス・キリストの再臨期を迎えた今、聖書の記述をもとに徹底検証します。

野村健二・著

(光言社・刊『誤解されたイエスの福音』〈2011111日初版第1刷発行〉より)

第二章 イエスの本来の使命

四、窮地に追いつめられていくイエス

第二次摂理のシナリオ——十字架刑へ
 さて、イエスは事態が決定的に悪くなってからも最後まであきらめられませんでした。最後の「主の晩餐」の後でさえ、イエスはゲツセマネの園で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子と共に、「この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ2639など)と必死に祈られました。今からでも何とか十字架を避けて天国直行の第一次摂理に戻すことができないかと必死に願われたのでしょう。その祈りに三人の弟子が心を合わせればあるいは新しい動きがあったかもしれません。

 しかしイエスが、別の所で祈らせていた三人の弟子のところまで行ってみると、三度とも眠りこけていました。こうして、ついに十字架・楽園の第二次摂理は決定的なものとなり、イエスを裏切った十二弟子の一人、ユダの合図(イエスへの接吻)によって、イエスは祭司長や長老たちに率いられた群衆によって捕まえられ、議会へ引き出されるのです。

 祈りが聞かれなかったことから、今や第二次摂理が神のみ意(こころ)だと悟ったイエスは、もはや全く動ずることなく、大祭司の質問に対して、「神の子、キリスト」であることを認め、再臨の預言までもします(マタイ2664など)。さらに総督ピラトの蔑みを込めた質問に対して「ユダヤ人の王」であることも認めます。さらに上述のごとくヨハネによる福音書(1837)にあるように、「王」「真理についてのあかし人」と、神がイエスに課したすべての使命について明確に説明した後、神の第二次摂理のシナリオどおりに、十字架→三日の後の四十日復活→再臨(再臨は弟子たちが生きているうちに実現されると預言されましたが、それは弟子たちへの励ましのために言われたもので、実際にはそうはならなかった)という道を敢然と歩まれるようになったのです。

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 次回は、「イエスの復活は肉体か霊か」をお届けします。


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