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誤解されたイエスの福音 20

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「誤解されたイエスの福音」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 パウロのイエス観は果たして正しかったのか。イエス・キリストの再臨期を迎えた今、聖書の記述をもとに徹底検証します。

野村健二・著

(光言社・刊『誤解されたイエスの福音』〈2011111日初版第1刷発行〉より)

第二章 イエスの本来の使命

四、窮地に追いつめられていくイエス

パウロの「救い」とは
 実は、十字架の救いを唱えたパウロ自身、この「救い」が現実には一体どのようなものなのかをはっきりと体験し、そのことを鬼気迫る筆致でまざまざと描き出しているのです。

 「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下(もと)に売られている……わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」(ローマ71415)。

 このようにパウロは霊的な律法を良いものだと見て、それをなそうと欲しているという点において「霊的救い」は得ていますが、それでいて「自分の欲しない事をしているとすれば、……この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(同71617)と、「肉的救い」は得られていないことを正直に告白しているのです。これがまさに「楽園」の特徴です。かくしてパウロは、「わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」(同725)と、こう自分で結論を下しています。

 それでも自分はイエスによって救い出されているのだと思おうとして、パウロは必死になって、「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」(72425)と言いますが、その直後には、「わたし自身は」と断りつつ、「心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えている」(725)と再び本音をもらしているのです。

 パウロがここまで正直であることは本当にすばらしいことだと思いますが、肝心の十字架宣教の中心人物であるパウロでさえこんな有様であるとすれば、パウロの宣教どおり、イエスを「主」と告白し、イエスの復活を心の底から信じたとしても、一体どうして完全な「天国」の救いが得られる道理がありましょうか。

 このパウロ自身の告白そのものが、イエスの十字架の救いが、イエスの霊的養子となる楽園の救いにとどまり、その肉的実子となる天国の救いではないことの決定的証明となるのです。

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 次回は、「“第二次摂理”への悲愴(ひそう)な決意」をお届けします。


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