2025.02.19 22:00
内村鑑三と咸錫憲 11
内村鑑三と文鮮明総裁をつなぐ咸錫憲
魚谷 俊輔
韓民族選民大叙事詩修練会において、内村鑑三が近代日本の偉大なキリスト教福音主義者として紹介され、その思想が弟子である咸錫憲(ハム・ソクホン)に引き継がれていったと説明された。
咸錫憲は文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁が若き日に通われた五山学校で教師を務めた人物だ。そこで内村鑑三から咸錫憲に至る思想の流れを追いながらシリーズで解説したい。
これまで繰り返し述べてきたように、内村鑑三は愛国的なキリスト教徒であった。その内村が聖書研究会において愛国を語る時、手に汗を握って聞く者は朝鮮の学生たちであって、日本内地の学生ではないと言っている。
こうした朝鮮の留学生たちの中で、愛国的なキリスト教徒としての内村の精神を受け継ぎ、それを祖国朝鮮に対する愛に再解釈して、独自の思想に発展させた人物が咸錫憲(1901~1989)であった。
咸錫憲は1901年に朝鮮半島北部の平安南道に生まれた。官立平壌高等普通学校3年生の時に「三・一運動」が起き、独立運動に身を投じて2年ほど学業を中断したというのであるから、もともと愛国心にあふれた青年だったことが分かる。
その後、彼は民族教育が盛んなキリスト教系の中等教育機関・五山学校に入学する。この五山学校は、三・一運動の「独立宣言書」に署名した民族代表33人の1人である李昇薫(イ・スンフン)という有名なクリスチャンが1907年に設立した学校である。
1923年に五山学校を卒業した咸錫憲は4月に日本に渡り、1924年に日本の東京高等師範学校に入学した。
同師範学校在学中に金教臣(キム・キョシン)を含む5人の同志と共に内村鑑三の聖書研究集会に入会して聖書を読む一方で、同志たちと共に『聖書朝鮮』誌を発行した。
咸錫憲は後に内村鑑三について、「人生問題と民族問題とに苦しんでいた私は、先生の講義には、そうした苦しみをほぐして下さる大きな点が多くあり、まことの信仰に生きることこそ真の愛国であることを確信するにいたった」(『死ぬまでこの歩みで』小杉尅次監訳、新教出版社)と述べている。
1928年に東京高等師範学校を卒業した咸錫憲は、母校の五山学校で1938年まで朝鮮史の教師を務めた。
文鮮明総裁は1934年に編入試験を受けて私立五山普通学校の3学年に入っているので、咸錫憲は文総裁が在学中に朝鮮史の教師だったことになる。
内村鑑三と咸錫憲の年齢差は40歳であり、咸錫憲と文鮮明総裁の年齢差は19歳である。
咸錫憲は晩年の内村から聖書の薫陶を受けており、文総裁は学生時代に咸錫憲の歴史の授業を聞いた可能性がある。咸錫憲は内村鑑三と文総裁をつなぐ人物として、大変興味深い。