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誤解されたイエスの福音 18

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「誤解されたイエスの福音」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 パウロのイエス観は果たして正しかったのか。イエス・キリストの再臨期を迎えた今、聖書の記述をもとに徹底検証します。

野村健二・著

(光言社・刊『誤解されたイエスの福音』〈2011111日初版第1刷発行〉より)

第二章 イエスの本来の使命

三、イエスへの関心が薄かった両親、ヨセフとマリヤ

カナの婚礼での事件
 さらにヨハネによる福音書には、マリヤがガリラヤのカナで婚礼に招かれ、同席したイエスに「ぶどう酒がなくなった」ので何とか都合をつけてくれと頼む場面の描写があります。それに対してイエスは、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」と答えます(ヨハネ214)。ここでイエスはマリヤのことを「お母さん」とは呼んでいません。「婦人よ」というよそよそしいものです。

 文鮮明(ムン・ソンミョン)師はこのことについて、前に説明したように、イエスがメシヤとしての務めを果たして、洗礼ヨハネの離反によって断たれたヨセフ家庭とザカリヤ家庭とのきずなを回復し、神からの「祝福」の基盤を築くためには「洗礼ヨハネの妹」を妻に迎えなければならなかったのに(『天聖経』「真の家庭」512頁)、マリヤがこの重大な使命について無理解、無関心で、人の婚礼にばかり夢中になっていることに憤(いきどお)られたのだと言われます。

 このようにイエスは、洗礼ヨハネから放置されたばかりではなく、肝心の母マリヤや名目上の父ヨセフの助力さえも十分に得られないままに放置され続けていました。これが、イエスがユダヤの民衆からメシヤ(キリスト)として迎えられず、十字架に追い立てられるようになった根本的原因だったと文鮮明師は言われるのです。

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 次回は、「サタンによる三大試練と救いの限界」をお届けします。


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