2025.02.07 12:00
誤解されたイエスの福音 17
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「誤解されたイエスの福音」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
パウロのイエス観は果たして正しかったのか。イエス・キリストの再臨期を迎えた今、聖書の記述をもとに徹底検証します。
野村健二・著
第二章 イエスの本来の使命
三、イエスへの関心が薄かった両親、ヨセフとマリヤ
マリヤの妊娠とヨセフの思い
まず、ヨセフを見てみましょう。
イエスの「母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重(みおも)になった」。そこで「彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した」。そのとき、「主の使が夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるものである。……彼は、おのれの民をもろもろの罪から救う者となるからである』」(マタイ1・18〜21)。
その後、「彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子(ういご)を産み、布にくるんで、飼葉(かいば)おけの中に寝かせた」(ルカ2・6〜7)。
このことを多くの人々は何かロマンチックな物語であるかのように受け取りがちですが、「民をもろもろの罪から救い」、ゆくゆくは「ダビデの王座」が与えられる(ルカ1・32)という神から祝福された子が、どうして「飼葉おけ」の中で生まれなければならなくなったのでしょう。ルカによる福音書には「客間には彼らのいる余地がなかったからである」(2・7)と説明されていますが、ヨセフは大工であったとはいえ、マリヤをちゃんとした宿屋に泊めるお金さえ算段することができなかったのでしょうか。これはまともに考えればヨセフが天使の啓示を絶対的には信じられず、マリヤが不義を犯したとしか考えられず、そんな子はどこででも勝手に生めとほうり出したために、そんな惨めな有様になったのだということになりはしないでしょうか。
さらに、「イエスが12歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめた」(ルカ2・42〜44)。
これも、ヨセフがイエスの出生を疑い続け、マリヤもヨセフに気兼ねして遠慮し続けていたからこそ起こったことだとは言えないでしょうか。
マルコによる福音書を見ると、さらにもっと驚くべきことが書かれていることに気づきます。
「イエスが家にはいられると、群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである」(マルコ3・19〜21)。
そのときイエスは、「彼(イエス)はベルゼブル(けがれた霊)にとりつかれている」と言いふらす律法学者たちを呼び寄せていろいろと言い聞かせ、「聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」と懸命にさとしておられたのです(同3・22〜29)。それなのに、それを気が狂ったと思ったとはどういうことなのでしょう。この「身内」の中には当然、子供たちだけでなくヨセフやマリヤも入っていたはずです。とすれば、この二人はイエスが神からメシヤとしての貴い使命を持って生を受けたということを、もう信じなくなっていたのでしょうか。
その後、群衆が「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言ったのに対し、イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」と問い返されたと書かれています(同3・32〜33)。このことに対しても、聖書の解説者は、この後に続く「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(同3・34〜35)の部分を捉えて、「神のみこころに従うこと」の重要性を説かれたのだと説くのが通例のようですが、ただそれだけのことでしょうか。そこにはイエスに課せられた神の貴い使命に対しての母マリヤの無理解、無関心に対する慨嘆の気持ちも含まれていたのではないかと私は思うのです。
後にイエスは、「いつかは、敵が周囲に塁を築き、……城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」(ルカ19・43〜44)と言われるようになりますが、その「おまえ」のうちに含まれる人の最大の者は、ほかならぬマリヤやヨセフであったと見るべきではないでしょうか。
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次回は、「カナの婚礼での事件」をお届けします。