2025.01.15 22:00
内村鑑三と咸錫憲 6
内村鑑三の非戦論とアジア主義
魚谷 俊輔
韓民族選民大叙事詩修練会において、内村鑑三が近代日本の偉大なキリスト教福音主義者として紹介され、その思想が弟子である咸錫憲(ハム・ソクホン)に引き継がれていったと説明された。
咸錫憲は文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁が若き日に通われた五山学校で教師を務めた人物だ。そこで内村鑑三から咸錫憲に至る思想の流れを追いながらシリーズで解説したい。
日露戦争勃発直前の1903年、国全体が熱狂的な愛国主義に沸き返っていた時、内村は公然と非戦論を宣言し、この戦争に反対した。
しかし『万朝報』のオーナーは、世論が戦争を支持していたために、政府の軍備を支持する方針を決定した。
先の日清戦争を支持した屈辱的な経験の後であったために、そのような戦争を支持することは内村の良心が許さなかった。
しかし非戦論を唱えるということは、『万朝報』を退社することであり、そのことは、直ちに生活の不安が押し寄せてくることであった。
内村には年老いた入院中の母の治療費のこともあり、生活は火の車であった。それでも内村は自分の信念を貫いて、『万朝報』のスタッフを辞任したのである。
内村は日頃から民族の独立ということを説いていたが、彼の傑出した点は、日本民族のみならず他民族の独立にも同様の関心を払っていたことである。
日清戦争で「義戦」を唱えたのも、朝鮮に対する義侠心(ぎきょうしん)から出たものであったが、1895(明治28)年に閔妃(ミンビ)が暗殺された時には、これを朝鮮における日本人の大失敗と見て、直ちに筆を取って「時勢の観察」を書いて批判している。
『万朝報』の英文欄主筆時代には、台湾で罪なき人々の血が流されていることを摘発する一方、朝鮮の幸福と独立を第一としなかった日清戦争の終結が、朝鮮を結果的に別の隷属に追い込んだことを追及している。
内村にとって朝鮮は日本と同じくアジアの一国であり、全アジアを霊的視野に置くという「アジア主義」こそ、内村のアジア観、朝鮮観の根本にある。
内村は1888年2月にアメリカ留学を終えて日本へ帰国する時、シーリー総長に出した相談状の中で、「私は長年心に抱いていたこの大問題、すなわちアジア人の間でキリスト教が取るべき形は何であろうか、神は全アジアの回心のためにいかなる責任を日本のキリスト者に負わせ給うたか、この大きな問題を解くためにもっと材料を集めたいと思います」(『内村鑑三研究』第3号 99ページ)と言って、帰国する途中にシナとインドを訪問したいと言っている。
この願いは結局実現されなかったが、キリスト教精神でアジアを復興させるという内村のアジア主義は、生涯変わらなかった。
内村の愛国心は偏狭なナショナリズムではなく、日本は世界のために生きるべきだという世界主義につながることはすでに述べたが、その前段階として、アジア主義があったのである。