https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=22576

内村鑑三と咸錫憲 4
卓越した内村鑑三の「朝鮮」観

魚谷 俊輔

 韓民族選民大叙事詩修練会において、内村鑑三が近代日本の偉大なキリスト教福音主義者として紹介され、その思想が弟子である咸錫憲(ハム・ソクホン)に引き継がれていったと説明された。
 咸錫憲は文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁が若き日に通われた五山学校で教師を務めた人物だ。そこで内村鑑三から咸錫憲に至る思想の流れを追いながらシリーズで解説したい。

 1894(明治27)年に始まる日清戦争は、日本にしてみれば、明治維新以降初めて国民総力を挙げて戦った戦争であった。それ故にその勝利に国民は酔いしれ、日本全土にナショナリズムの風が吹き荒れた。

 これが次第に日本を際限なき領土拡張への野望へと駆り立て、朝鮮民族に対する植民地統治へとつながっていったわけであるが、既にこの時代に日本が行こうとしている誤った方向性を見抜き、日本人の良心を代表して領土拡張政策に反対した人物の一人が、内村鑑三であった。
 内村の朝鮮および朝鮮人観は、この時代の日本人の中では卓越したものであった。

 西洋文明をアジアの他の国より一歩先に受け入れ、政治、軍事、教育、経済制度の改革を一気に行った日本が、文明を東洋に伝える戦士とならねばならないということは、内村だけでなく、当時の青年の少なからぬ者たちが抱いた夢でもあった。

 愛国者であった若き内村も、「日本国の天職」という論文の中で、日本の使命は東洋の代弁者となり、西洋の先触れとなって、「東洋と西洋の媒酌人」となることにあると楽観的に考えていた。

 しかし内村鑑三が、福沢諭吉に代表される明治維新以降の啓蒙思想家たちと決定的に違う点は、朝鮮は日本と同じくアジアの一国であり、日本の天職は当然朝鮮とも深く関わりをもっていると考えていたことである。

 福澤諭吉の立場は「脱亜入欧」というスローガンで知られ、これは一言でいえば「アジアから抜け出して西欧の仲間入りをしよう」という構えであった。

 それに対して内村鑑三は、日本という国家をあくまでアジアの一員として捉えており、そのため、日本を西欧の一部と見なし、アジアからの脱出が祖国のためになる、という福澤諭吉の「脱亜論」的な考え方とは、全く無縁であった。

 内村は日本の使命に対して楽天的な考えを持っていたとはいえ、アジアの隣人を見殺しにしてでも、まず日本の繁栄を優先しようというような考え方をしたことは一度もなかった。

 日清戦争は、内村と明治維新以降の啓蒙思想家たちとの間に、ナショナリズムそのものにおいて本質的に思想的な対立があることを照らし出し、内村と時代一般の啓蒙思想家たちとの分岐点ともなったのである。