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内村鑑三と咸錫憲 3
朝鮮への思いと再臨運動

魚谷 俊輔

 韓民族選民大叙事詩修練会において、内村鑑三が近代日本の偉大なキリスト教福音主義者として紹介され、その思想が弟子である咸錫憲(ハム・ソクホン)に引き継がれていったと説明された。
 咸錫憲は文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁が若き日に通われた五山学校で教師を務めた人物だ。そこで内村鑑三から咸錫憲に至る思想の流れを追いながらシリーズで解説したい。

 内村鑑三は晩年になると、「日本の天職」に関してだんだんと悲観的になって失望していく。それは日本が侵略戦争を行ったからである。

 日本がその天職から遠ざかりつつあると言いながら、晩年の内村は朝鮮に対して関心を向けていくようになる。
 彼は1908年に「幸福なる朝鮮国」という文章を書いていて、隣国の朝鮮は国を失ってもキリスト教信仰が広まっている、そして朝鮮民族はユダヤ民族にそっくりだと言っている。

 内村は、日本の救いは朝鮮から来るのではないかと感じるようになり、「信仰のことに就いては、朝鮮人は全体に日本人以上であるように見える。多分、わが信仰が朝鮮人の中に根ざして、然る後に日本に伝わるのであろう」(1929年4月1日の日記)と書いている。

 内村の生涯で興味深いのは、再臨運動をやっていることだ。
 「再臨主がやって来る」ということを、ある日突然叫び出したのだ。彼が再臨運動をやるようになったきっかけは、第一に愛娘のルツが1912年に亡くなったことだ。
 これは彼にとって大きな悲しみであり、それが「復活」の信仰へと結び付いていく。再臨のある時に復活するということが希望であったので、これが再臨信仰につながっていくのである。

 次のきっかけとなったのが、1914年にヨーロッパで第1次世界大戦が起こったことだ。
 キリスト教国であるイギリス、フランス、ドイツが互いに戦争しているということは、もはや人間の力によっては、世界平和は訪れない、何か決定的で直接的な神の介在がない限り、人類の文明はもう救いようがないという、ある種の絶望感を内村は抱いた。
 最終的にはキリストが再臨しない限りは、この世に完全な救いはないということで、再臨信仰に目覚めたのである。

 191816日、内村はホーリネス教会の中田重治、組合教会の木村清松と共に東京・神田のYMCA(キリスト教青年会)において、再臨運動の講演会を始めた。
 それから約1年半にわたって、再臨を叫び続けた。

 「キリストの再来こそ新約聖書の到る所に高唱する最大真理である」「平和は彼の再来に由て始めて実現するのである」(『内村鑑三全集』(24巻、60ページ)というのが彼の中心メッセージだった。
 19181919年といえば、文鮮明(ムン・ソンミョン)師が生まれる直前である。

 内村自身は、聖書に書いてあるとおり、再臨主は雲に乗ってやって来ると信じていたようだが、この時期に再臨を叫んだということ自体、彼は日本における預言者的な使命があったとしか考えられない人である。