2024.12.20 12:00
誤解されたイエスの福音 10
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「誤解されたイエスの福音」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
パウロのイエス観は果たして正しかったのか。イエス・キリストの再臨期を迎えた今、聖書の記述をもとに徹底検証します。
野村健二・著
第二章 イエスの本来の使命
一、十字架は神の予定か
不可解なイエスの方針変更
さて、このように、神が宇宙と人間創造に当たって定められた永遠不滅の完全な真理、すなわち福音の宣布と、真理と真の愛による人類一家族世界が、神がイエスを出生させた真の目的であったとすれば、そこでどうしても理解困難となるのが、摂理の途中で突然、「イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして3日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた」(マタイ16・21)という部分です。
実際、批判的な現代神学の先駆者、アフリカに赴いた医師・伝道師、バッハ研究の権威であり、オルガン奏者という万能の天才であったシュヴァイツァー(1875〜1965)は、「イエスの生涯の叙述のすべては受難思想が出現するまでは満足できる。しかしそこで連絡がなくなっている。なぜイエスはここで突然、自分の死が必然的なものと考えるのか、またイエスはいかなる意味で自分の死が救いをもたらすものであると見るのか、それらの著作(シュヴァイツァー以前に書かれた神学的著作)の一つとして明らかにしているものはない」(シュヴァイツェル『イエスの生涯』岩波文庫、5頁)と書いています。
ではこの問題には一体どう答えたらいいのでしょう。このことについて文鮮明(ムン・ソンミョン)師は実に明快に答えておられます。その解き明かしを次に紹介することにしましょう。
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次回は、「洗礼ヨハネの誕生」をお届けします。