2024.12.13 12:00
誤解されたイエスの福音 9
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「誤解されたイエスの福音」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
パウロのイエス観は果たして正しかったのか。イエス・キリストの再臨期を迎えた今、聖書の記述をもとに徹底検証します。
野村健二・著
第二章 イエスの本来の使命
一、十字架は神の予定か
イエス自身の証言
また、イエスが福音を宣(の)べ伝えられたときも、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1・15)と言われ、あるいはイザヤ書61章1節の“貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださった”云々というところを開いて読み、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ4・16〜21)というもので、いずれも、「王」の予告ではありませんが、「福音」の伝達者として神がイエスを派遣されたというもので、十字架の予告では全くありません。
さらに決定的なのは、十字架にかけられるはめとなる直前、祭司長たちに捕らえられて、当時ユダヤを支配していた総督ピラトが「あなたがユダヤ人の王であるか」と聞いたのに対し、イエスが否定しなかったことです(マタイ27・11、マルコ15・2、ルカ23・3)。そのために、イエスがかけられた十字架の頭の上には、「これはユダヤ人の王イエス」という罪状書きが掲げられることになりました(マタイ27・37、マルコ15・25、ルカ23・38、ヨハネ19・19)。
さらに、ヨハネによる福音書には、イエスの出生目的の全体像が、「わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ(太字は筆者)、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」(18・37)とはっきりと要約して示されています。このイエスのみ言(ことば)によって、これまで紹介した「王」、「福音」(真理についてのあかし)という二つの目的が見事に統合されているのを見るのです。
イエスはまさしく、ヘンデルの名曲にあるように、世界中の「キング・オブ・キングズ(王の王)」となるため、その手始めとしてまずユダヤ教に受け入れられて歓迎され、それを土台としてローマ全域、さらには東洋(哲学者ヤスパースが指摘するように、この時には世界の全域にわたって、仏教、儒教、道教、ギリシャ哲学などの宗教、哲学など、人生の知恵の基盤ができていました)にまで神の統治の手を広めるために来られたこと。これはイエスご自身の自己証言からして疑う余地がないのです。
しかし、これまでの統治者のように、暴力的方法によって世界を統治するのではなく、パウロも言うように、単なる子供の「養育掛(がかり)」にすぎない律法を超えた完全な倫理(コリントⅠ13・12)を、神からの啓示をもとにして明らかにし、それに基づいて(愛をもって)全世界を統治するというのです。この完全を求めて宣布された真理こそがパウロが全く無視したイエスの「福音」なのです。
使徒行伝によると、殉教者ステパノは、どうして知ったのか、律法がレビ記にあるように神から直接受けたものではなく、「御使(天使)たちによって伝えられた」ものだとしています(使徒7・53)。
文鮮明(ムン・ソンミョン)師は、このステパノの証言が正しく、主(神)が直接モーセに律法を伝えたのではなく、天使を通して間接的に伝えられたのであり、そのため「安息日」を守らずにたきぎを集めたというだけで石で打ち殺される(民数15・32〜36)というような、全く杓子定規の厳格なものとなったのですが、神ご自身はそうではなく、全くの愛の方なのだと言われます。それが本当だとすれば、律法を超える成人の教え──福音──を宣べ伝えるということがどれほど重要なことであったかが分かります。
要約すれば、成人を対象とする完全な真理、「福音」の宣布と、それに基づく「世界の統治」、その手始めとしてユダヤ教に歓迎されること。これが神がイエスをマリヤを通して世に送られた真の目的であり、パウロの言うように、原罪をもつがゆえに律法を守ることができないほど罪に汚れた者に赦(ゆる)しを与える目的で十字架にかかるということは神のイエス派遣の本来の目的ではなかったということ。これは上述のピラトの前でのイエスの簡にして要を得た自己証言からして火を見るより明らかだと言わなければなりません。
パウロは使徒との交わりがなかったために、この重要なイエスの自己証言を多分何も知らなかったのです。
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次回は、「不可解なイエスの方針変更」をお届けします。