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誤解されたイエスの福音 8

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「誤解されたイエスの福音」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 パウロのイエス観は果たして正しかったのか。イエス・キリストの再臨期を迎えた今、聖書の記述をもとに徹底検証します。

野村健二・著

(光言社・刊『誤解されたイエスの福音』〈2011111日初版第1刷発行〉より)

第二章 イエスの本来の使命

一、十字架は神の予定か

食い違う「メシヤ像」──十字架贖罪論と旧約聖書の預言
 まず旧約聖書には、メシヤ(キリスト)の来臨についてどう書かれているでしょうか。その代表的なものはイザヤ書96節から7節の預言です。そこにはこう書かれています。

 「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、……そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め(太字は筆者)、今より後、とこしえに公平と正義とをもって、これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである」。

 これは十字架の預言どころではなく「ダビデの位」、すなわちイスラエルの王であり平和と公平と正義の王になるとの預言です。

 そのほか、イザヤ書165節、601節から22節、サムエル記下712節から13節、列王紀上825節、歴代志下616節、詩篇13211節から12節、エレミヤ書235節から6節など、圧倒的多数が、「その道を慎んでわたしの前に歩むなら」未来に最高の王を送るという預言でした。ただ一つ、イザヤ書53章だけに、「彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」(12節)と、十字架の預言らしいことが書かれていただけです。

 しかしこの53章の預言も、神の選民として立てられたユダヤ人たちがこれまで神に逆らうサタンの惑わしによってすべての預言者たちに猛烈な迫害を加えた(使徒75152参照)ことを考えると、彼らが神の意志に背いて軽蔑の意味を込めた政治的な「ユダヤの王」として十字架にかけてしまうおそれがあったので、もしそうなったとしてもユダヤ人の信仰を再興させて、メシヤの再臨により神の当初の目的──神のみ旨に従って世界を治めること──が可能なように、万一に備えての預言だったと見ればよく、メシヤ派遣の目的が「王」になることではなく、「十字架による贖罪(しょくざい)」であったという結論には全くならないのです。

 また、新約の福音書を見ても、マリヤがイエスを宿したときに天使が与えた啓示は、「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる(太字は筆者)」(マタイ121 )、「主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり(太字は筆者)、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続く」(ルカ一・3233)というもので、やはり「王」になる予告であり、十字架での死を暗示するものではありません。

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 次回は、「イエス自身の証言」をお届けします。


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