2024.11.14 22:00
川瀬カヨ(上)
『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)
天の示しに従って修行
救いを求める人々が集まる
天地正教(本山・北海道帯広市)の初代教主、川瀬カヨは、1910年6月15日、北海道・帯広の北方、現在の南中士幌の地に開拓入植した山岡金松、ナヲを父母として、2男5女のうち3番目の次女として生まれました。父母は雑貨商を営んでいました。
山岡商店は開拓団の中で大きな成功を収め、地域の学校や役場などに多額の寄付をするほどになっていました。山岡家は先祖代々、弘法大師・空海を心のより所としており、神仏を尊ぶ信仰篤き家庭環境の中でカヨは育ちました。
試練を感謝に変えて
しかし、19歳で体験した結婚の挫折は、その後のカヨの人生を大きく変えていくことになりました。カヨは一度ならず二度も結婚に失敗しています。この失敗も神の訓練であったかもしれません。苦労と悩みを体験することによって、同じ悩みを持つ人の事情を共有することができるからです。夫の裏切り、息子との生き別れなど、母として妻として心の重荷を背負ったのです。
また、カヨ自身に霊的現象が数多く現れ、霊界との厳しい闘いにもさらされたのでした。
昭和12年の春、カヨは川瀬栄作と出会い結婚をしました。43歳の栄作に嫁ぐ26歳のカヨの嫁入り道具は、箸(はし)と茶碗とミカン箱だけという貧しいものでした。
カヨは1男3女の子宝に恵まれるものの、夫の事業の失敗により経済的な困窮に陥ります。そして、このころからそれまで隠れていた病気がいくつも出始めました。肝臓や腎臓を相次いで患い、さらに結核や肋膜炎などが出てきました。後に病気の問屋といわれるほどに健康の不安におびえ続けていました。
そうした一つひとつの出来事を、幼少からの宗教的環境がそうさせたのでしょうか、カヨは天の訓練として受け止め、難しい境遇に置かれるほど、神仏への信仰はさらに深く培われていきました。
「うち続く不幸は、私がだれよりも罪深いからだ」と、自分に言い聞かせながら、歯をくいしばって堪え忍んだのでした。
「天運教の教祖たれ」
昭和31年11月12日、カヨが「汝、天運教の教祖たれ」という天啓を受けた時から、天地正教(昭和63年に名称を変更)は教団として出発していくことになります。「天運教」の天啓を受けた後、百日日参(ひゃくにちにっさん)や極寒の中での水行、霊山への登拝(とはい)など、天の示しに従う修行の日々が続きました。
特に水行の啓示は月に3回から5回降りてきました。真冬の、しかもマイナス20度から30度にもなる大寒の日に啓示されることも少なくありませんでした。水行のあと、水をかぶった周囲には氷柱が山のようになっていたといいます。
「7日間、夜9時以降にせよ」
その命令に対して、7日間に3日をプラスして10日間の水行を行うのです。
後の3日間は無事に全うできたことに感謝する意味がありました。この修行は、17年間にわたって続けられました。
カヨは天から示される一つひとつの「お示(しめ)し」を常に絶対的なものとして受け止めていました。天命に対しては、いかなることであっても受け入れ、たとえその道が命をやり取りするような内容であったとしても、感謝に変えていったのです。
修行を重ねたカヨは、不思議な霊的感性が備わるようになりました。訪ねてくる人の体に手をかざすと、病気の個所をたちどころに見つけ出し、お祈りをして快復させたりできるようになりました。こうした癒しの力は評判を呼び、いつしか救いを求める人々がカヨのもとに集うようになるのでした。
(天地正教教団史『すずらんの祈り』から)
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次回は、「川瀬カヨ(中)」をお届けします。