2024.11.07 22:00
トマス・アクィナス(下)
『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)
聖人の列に加えられる
神学の教科書『神学大全』著す
パリ大学教授としての活動は3年で中断して、トマスはイタリアに帰りました。
続く10年の間、彼は教皇庁とともに何度か住まいを移しながら、活発な教授・著作活動を継続しました。5名からなる委員会の一員としてドミニコ会内部の教育に尽力し、アリストテレスの著作の徹底的な研究に着手しています。
ほかにもキリストの聖体の祝日がカトリック典礼に取り入れられるのに際して、教皇の特別な願いを受けて祈祷文や讃美歌を作り、詩人としての豊かな資質を示しました。また東方教会との一致運動にも熱意を傾けました。
『神学大全』
この時期に彼は主著として知られている『神学大全』(1266~1273)の著述に取り掛かっています。トマスが序文で語るところによると、この本は神学の初心者の教科書たることを意図して書かれたものです。
第1部では神、ならびに第1原因である神からの万物の創造が考察され、神の存在論証、創造論、人間論などが含まれています。倫理篇と称される第2部では、神の似姿である人間がいかなる方法で神への道をたどるかが論じられています。第3部の主題は、神と人間の仲介者であり、人間を神へと導くイエス・キリスト、およびキリストが定めた洗礼や悔俊(かいしゅん)の秘蹟についてです。
1269年の初頭にドミニコ会はトマスをパリ大学の講壇に復帰させ、第2回パリ大学教授時代が始まりました。この時期にトマスの著作活動はめざましい実りを見せ、『神学大全』第2部が完成しました。
1272年の春、トマスはドミニコ会の方針によって、紛争の渦巻くパリ大学を去って、ナポリに向かいました。彼に与えられた課題はドミニコ会の神学教育・研究の中心となるべき大学の設立であり、彼はその場所としてナポリを選んだのです。
トマスはナポリ大学に隣接するドミニコ修道院で講義を行いました。この講義はナポリ大学の学生に対しても開放されていました。
また彼が1273年にサン・ドメニコ・マッジョーレ大聖堂で行った連続説教は、一般市民の間に異常ともいえるほどの感動を呼び起こしました。ナポリのほとんど全市民がトマスのすべての説教を聴くために集まったという証言が残っています。
夜半まで著作に没頭
他方、トマスの著作活動はパリ大学時代と同じような密度で続けられました。
トマスは毎日夜明けに起きて、告解(罪の告白)を行い、次に聖ニコラウス礼拝堂(サン・ドメニコ・マッジョーレ大聖堂の中にある)でミサをささげました。その後、すぐに講義を始め、それが終わると食事までの時間を、書いたり口述したりするのに費やしました。食事が終わると午睡の時間まで自室で祈り、午睡の後は再び著作に従事して夜半まで続けました。その後ただ一人、聖ニコラウス礼拝堂で長い間祈り、朝課(午前2時)を告げる鐘が鳴ると急いで自室に戻り、他の修道士たちと一緒に起床したかのように振る舞い、朝課の後、夜明けまでしばらく睡眠を取りました。
このような生活をしながら、トマスは自らの生涯の最期の期間を『神学大全』の充実に当てました。これによってトマスが構想した神学の叙述が完成するはずでした。しかし1273年12月、聖ニコラウスの祝日に、悔俊に関する論考の途中でトマスは突然筆を置き、彼の最も体系的な著述は未完に終わってしまったのです。
この偉大な著作の完成を懇望する同僚に対して、トマスは「私にはできない。私が書いたものは、私が見たもの、私に啓示されたものに比べると、わらくずのようなものにすぎない」と答えました。
1274年教皇の要請にしたがってリヨン公会議に出席するため、トマスは病気をおしてナポリを出発しましたが、ローマに着く前に病が重くなり、フォッサヌオヴァのシトー会修道院で3月7日に亡くなりました。
トマスの死後まもなく列聖運動が起こり、1323年に聖人の列に加えられました。カトリック教会の典礼では3月7日がその祝日と定められています。
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次回は、「川瀬カヨ(上)」をお届けします。